私たちは何歳になっても、母親の前では子どものように振る舞ってしまうことが頻繁にある。自分が50歳になろうとも、60歳を迎えていたとしても母親の一言に天に舞い上がりもし、地獄の苦汁を飲む思いもする。
母親との絆は深い。
彼女から生まれてきた。というこの紛れもない事実が、私たちのその後の人生を左右すると言っても決して過言ではない。そこに「気づき」という光があたらない限りは。
瞑想を実践し始め、自分の内なる旅を探求していくと「気づき」が芽生えてくる。そして「気づき」が育ってくる。自分の内側で−−−。それまで自分の皮膚の一部や血だと思い込んでいた何かが突然そうでないかもしれない!ということへの認識が生まれてくるのだ。それは時として実に痛い。痛くて仕方がない。しかしこの痛みは消えていく。消えていくものは永遠には存在しない。
そして、この消えていく瞬間は、ある特定のアプローチを用いて認識が生まれるときには深い癒し、魂を揺さぶるような癒しが起こることがある。そのとき痛みはない。畏敬の念といったほうがむしろ近い感覚かもしれない。生命(いのち)という深淵かつ神秘の存在に触れ、私たちはただお辞儀をし、人間であることの尊厳を取り戻す。
その特定のアプローチが、「家族の座」と呼ばれる画期的なワークだ。
母との関係に良好だと心の底から言える人はいったいどのくらいいるだろうか。気づきがなければ、自分が母とどれほど同一化しているか認識することは骨の折れる仕事だろう。家族の座は、座を開くことを通してAcknowledge認識する—つまり、あるがままを見る。ということの大いなる助けになる。それは単純に「お母さん好き」と誰しもが言えるようでなければならない、といった押し付けは一切ない。お母さんをどうしても好きになれない人もいる。家族の座は、「家族のメンバー、みんな大好きです!」というハッピーエンドを目標としているのではない。
むしろ、お母さんとは本当に仲良くなりたいけれども、今の自分にはこれが精一杯だ。だとしたら、ただそれを見る。認識する。そのことが肩の荷を大きく降ろす作業となりえる。そのスペースに何かが起こる。
私自身、母への恨み辛みが山積みになりすぎて寂寥の思いの青春時代を過ごしてきた。母をシンプルに一人の母として、自分から離れて見ることができていなかった。それが家族の座のワークを通して、母をただシンプルに見ることができた瞬間から彼女への素直な愛情表現、彼女からの愛情を抵抗したりもがくことなく受け取ることができるようになったのだ。それは私の人生ので岩のように障害になって、流れていくことができていなかった何かが流れ始めたことを指し示してくれた。人間関係においても、仕事においても、その流れがもたらしてくれたものは計り知れない。
それほどにパワフルなアプローチであるゆえに、興味本位で近づくのはやめたほうがいい。好奇心だけで座を開くのは魂の尊厳に反します。真摯に今これからの人生を愛と感謝をもって、あるがままの自分を生きることを願う方へ心からおすすめしたい。
先日、機内映画で見た「シークレット・アイズ」は、家族の座に興味がある人だけでなく、家族の座を学ぶ人たちにもぜひ一度は見てほしいなと思う。母親の娘への愛をこれほど強烈に、リアルに見せてくれる映画は久しぶりだった。かなりの衝撃が全身に走りました。
どちらのコースも受付開始しています。このワークに初めて参加された方のほとんど全員がこれまで直感の声に従って参加されています。私もそうでした。何かよくわからないけど、これはいかなければならない。これを受けなればならない。そんな声に従って私は家族の座と出会いました。
ですから、もしそれに近いような声が聞こえたならきっとそうなんだと思います。何かが深く触れるとき、頭ではよくわからないことがあります。そんなときはその声を信頼してあげてくださいね。
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