愛は解き放たれるのを必要としている
内なる発露が
ある日突然わたしを動かす。
それまで
知らなかった世界へ
それまで
踏み出せなかった世界へ
それまで
見えていなかった世界へ
そして、
思ってもいなかった世界へ
わたしを突き動かす
何かが発動して、
人は
タントラに出会います。
Welcome to the World of Tantra
ところが
どうでしょう。
タントラの世界に
入ってきたら、
体験したこともない
美しさや満ち足りた感覚、
これこそ
まさに愛だ!
と
感じるのも束の間、
普段見ぬふりをして
覆い隠していたものまで
顕れてくる。
愛だと思っていた、
愛かなと思っていた、
愛だよね~、
と思っていたそれは
実は
ただの欲望マシーンが
発動していただけかもしれない
という衝撃。
いや待て待て!
私は世にも稀な
タントラの世界へ、
地上で生きうる
最も甘美なタントラの世界へ
やってきたはずなのに
なぜ?
僕は
ただのエロオヤジなのか?
私は
ただの強欲オンナなのか?
ワシは
ただ満たされることが
なかった性欲のあれやこれやを
タントラという名のもとに
ぜーんぶ満たしてやろうと
しているだけなのではなかろうか?
この衝撃の瞬間も
タントラを実践し始めると
必ず訪れます。
Oshoは言います。
愛は人間の内側に
閉じ込められている。
それは解き放たれるのを
必要としているだけだ。
問題は、
愛をどのように創り出すかではなく、
どのようにして
Osho
明るみに出すかということだ。
私達は自分を、
何でおおい隠してしまったのだろう?
愛が表面に現れるのを
邪魔しているのは何だろう?
私たちは
愛が表面に現れるのを
あらゆる手段を用いて
邪魔します。
だって
邪魔しない方法が
あるって知らなかったんだもの。
だって
邪魔してるって
そもそも知らなかったんだもの。
あぁそうか、そうだよね
そうです。
私たちは知らなかった。
そんな自分のカオスを。
そんな自分の欲深さを。
タントラの
始めの一歩はここからです。
今の自分がどうであれ、
まったき今の自分を
一切の批判や評価をせずに
一切の虚飾や加工をせずに
あるがままの自分を
そのまま受け容れる。
ポイントはここ。
一切のジャッジをせずに、
です。
はて?
一切のジャッジをせずに
あるがままの自分を
受け容れるとは、
どのようなことを
言うのでしょう?
例えば、ですよ。
僕は
ただのエロオヤジなのか?
その衝撃がやってきたら
うん、
そうだよ。
僕は
ただのエロオヤジです。
それを
一切ジャッジせずに
ただ、そうか、そうかと見る。
まさにその瞬間に
タントラの深い受け容れが
起こります。
そして、
次の瞬間気づきます。
僕は
ただのエロオヤジだが、
それ以上の可能性が
僕の中にある。
それ以上の何かが
現れてくるのを待っている。
それはなんだか
憧れのような、
目には見えないし
手に触れることはできないんだけど・・・
オレは
それ以上の何かに
つながりたい。
自分でも知らない
自分の可能性を、
咲かせてあげたい。
種子のまま
花を咲かずに
終えるのではなく、
種子が花になるのを
見届けたい。
その生を生きたい。
花として死にたい。
その可能性を
自分の中に見出したらなら、
愛が解き放たれ始めます。
大きな岩が消えて
愛が流れ始めていきます。
大海へと
愛が流れ始めていきます。
だからこそ
タントラは何度でも言います。
深い、深〜い受け容れが
あなたを変容させる。
と。