ひとりで生まれ、ひとりで死ぬ
この世界に一歩足から踏み入れたのか、頭からニョキッと現れたかは人それぞれですが人間も動物も生きている万物はみな「ひとり」で生まれ、「ひとり」で死ぬ。
このことは、折にふれ何度でも思い出しておきたいことです。
なぜなら、誕生した瞬間から私たちは一人残らず死に向かっているのだから。
パラレルワールドとか流行りだけれど、そんなものはあろうがなかろうがどうでもいいではないかと思う。もしかしたら、その世界を見たっていう体験は何かしら人生に色彩を与えるかもしれないけれど死ぬ時には全く関係ない。
限られた時間をどう過ごすのかは自分次第
なぜ生まれてきたんだろう。
何のために生まれてきたんだろう。
生まれてから純粋培養の王室で、「死」という現象を見たり聞いたり教えてもらったことのなかったブッダ。
彼は一国の王子として生まれ、父親の指示で「死」から一切を切り離されていた。
草花の死、動物の死、ありとあらゆる死を体験したことがなかった彼が、ある日人間の死体に遭遇したことがキッカケとなり「自分とは何者なのか」ーーという探求の旅へと向かっていったのですが、私たちも生きている限り程度の差こそあれこうした「問い」が自然と起こるような人生経験を通過していますよね。
そのまさに生まれて来たときから、死ぬまでの時間。人によっては、数ヶ月、数年、数十年、、、と時間の長さは違いますが、「生と死」のはざまでどう生きていくのか。
ここが、いま、どうしたいんだろうーーですよね。
まわりをみて、まわりから言われて、まわりを気にして、まわりと同じように・・・
ブッダは「生には何の意味もない。あなたが意味を見つけるのだ。」と言います。
ふたりの孤独な人間が出会うとき
生きる意味、生きていることの価値を見つけるのは容易いことではないかもしれません。
自分が生きていることの価値を他者が与えてくれる。それは魅力的に聞こえます。
「私には、あなたが必要です。」
こんなことを好きな人に言われたら、微笑みが隠せないかもしれません。自分の価値が認められて、評価されたのですから。
私たちはそれをごくふつうに「愛」として受け止めます。必要とされることが、人間として生きている資格があると思い込んでいるから。特に女性は、求められてこそ意味があると勘違いしている生き物ですから当然です。
でも、ちょっと待ってくださいね。
誰かに必要とされて嬉しいなら、喜んでいるあなたも誰かを必要としているということです。
これはとてもシンプルな算数式ですが、盲点になりやすい。
この必要性とやらは、一体どこからやって来ているのか。
これはブログ記事の一行で済ませることはできない複雑なことだと思います。
私たちは生まれた瞬間は、何も手にしていなかったし、何の心配もなく、完全で完璧で不安も疑問もない存在だったはず。
それは愛と呼ぶこともできるし、光、信頼とも呼ぶことができるでしょうし、それはまた、何ものとも分かたれていない全体そのものだったと呼んでもいいでしょう。
その日を境に、私たちは世界と出会い始めます。ミルクがすぐもらえなかったり、兄弟姉妹に叩かれたり、様々なチャレンジや困難を経験して成長していきますよね。
この成長の過程で、完全であった何かから切り離されたように感じる体験を何度も繰り返します。
それまでひとつであったものが、分断されてしまう。分断されたものは、自然の流れは、またひとつに戻ろうとします。
深いところで、またひとつに戻りたいーーと願っているものの、その純粋な憧れは誰かとの愛を通じてしか為されないと錯覚します。
戻ろう、戻りたい思いは、誰かの愛情表現や実際にそばにいてくれることで完結したように感じるでしょう。
それは温かく人間味あふれた愛の感覚で、私たちは思春期を迎えたあたりから恋が始まりますよね。
相手を食いものにして自分の孤独を欺こうとしても限界はある
愛を自分に与えるすべをほとんど知らずに来ていると、愛は外側から、誰か他のひとからもらうものーーと思い込んでしまいます。
自分という人間の、ある独特の愛の世界観が構築され、この世界観にできるだけフィットする相手を選ぶことに全注力が注がれていくようになると地獄が始まります。
自分のなかにある、
分断された感覚、
満たされない感覚、
いつもどこかが足りていないように感じる、
欠乏している感覚は、誰か他のひとに埋めてもらうことで満ち足りるような錯覚を覚えます。
それはともすると、自分は孤独じゃない、誰かほかの人がいるんだーと自分に言い聞かせて気づかぬふりをすることになってしまいます。
ただ、さっきの算数式とまったく同じ公式がここにも見事に当てはまるわけですね。つまり、あなた自身が誰か他の人いるから孤独じゃないと思っているなら、相手も同じ。
孤独X孤独=孤独x2 孤独の二乗
孤独の倍々ゲームに参戦することになってしまいます。
ひとしきりの熱が冷め始める時期がくると、孤独を埋めるゲームのコマを進める道が途絶えてしまう。
用済みになった時、用済みにされた時
そうなったら、あとは惰性で続けていくか。仮面夫婦を続けていくか。
どちらにせよ、こんなはずじゃなかったーーとか
面倒くさくなったーーとか
楽しくない、面白くない、あれはいや、これはいや、あれも嫌、これも嫌。
顔もからだも見飽きた、匂いがダメ、仕草がダメ、言葉遣いがダメ、ダメダメ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いーーー。
相手を利用する価値がなくなってしまうので捨てる。捨てられる。
ということが恋人たちのあいだで繰り広げられます。しばらくなんとか継続したとしても、破綻が見えている先にタッチダウンするのが何時になるかーーー時間の問題だけでしょう。
時間を少し先伸ばしして、、、いくことはできるけど、本当にそれでいいのでしょうか。
夫婦であれば、体裁のため、こどもため、老後のため、、、最もらしい理由が千と山ほどあるので孤独な人生を結婚しながら続けていくことはできますがーー。
それは、生と死の「狭間」という限られた時間のなかで本当に望んでいることなのでしょうか。
念の為、そういう境遇にいる人は別れた方がいいと言っているわけではないことを明記しておきます。
愛しているから一緒にいたい=自由を破壊するのは愛じゃない
愛してるから一緒にいたいーーの裏側にあるのは、「あなたがいなくて一人だと寂しさを感じてしまって、その孤独に耐えられない。」のかもしれません。
それなら、そう言えたら素敵ですが、自分という厄介な仕組みを理解する内面のワークをしていないとなかなか言える言葉ではありません。
愛は自由を与えます。
なんであれば、取引としての自由でなく、シンプルにあなたも相手も自由であるときに愛は呼吸することができます。
愛という名の束縛、所有、嫉妬は、醜いだけなく自分を徹底的に痛めつけることになってしまいます。
それはこどもが無邪気に遊んでいている姿に例えるとわかりやすいでしょう。子供たちが自由に走ったり、駆け回ったりしている。その子どもには、理由もなくただただ愛が溢れています。
そこに、
こうして遊んじゃいけない、あれをして遊んじゃない。と言われた子どもは、それまでの無邪気さや自由で活発に動くエネルギーが小さくなって縮んでしまう。
私たちが呼吸をしなかったら死んでしまうように、愛は自由がなければ死んでしまいます。
愛は自由とともだけ羽ばたくことができるのです。
愛すること。必要からではなく、分かち合いとして
愛が必要からでなく、ただただ溢れているなら
それは分かち合いになります。
自分というカップでは小さすぎて、愛があふれてあふれて、どうしようもなくあふれている。
そのようなふたりの愛は、自由という羽がついているように大きく大きく青空にはばたくことができるでしょう。
もし自分が愛する誰かといて、
羽ばたける感じがなかったとしたら、
羽を広げることに躊躇があると感じるなら、
愛という名のもとに何をやっているのかーーー自問自答してみてほしいと思います。
愛が瞑想と出会うとき新しい扉が開く
このあふれるばかりの愛は、この記事を読んでもでてこないし、何か違う本を読んだりしても決してあふれるようにはなりません。
私たちは、幸いなことにそこまでロボット化してはいないーーというグッド・ニュースなのですよね!
愛という名のもとに、あなたが別の何かをやり続けているとしたら、その何かを知りたくはありませんか?
愛という名のもとに、あなたは全く別のことを期待しているのかもしれません。それが一体何か知りたいとは思いませんか?
愛という名のもとに、自分をだまくらかして誤魔化し続けていたとしたら、
いつまでそれを続けられそうでしょうか?
死ぬまでやりますか?
その答えを自分で見つけることができるとしたら
自分でつくりだしたものですから、自分で答えは見つけられます。
そして、
答えを探す最短の素晴らしい方法があります!
それが「瞑想」です。
瞑想には様々な技法がありますが、自分で自分の中を深く覗き込んでいったときに初めて見つけることができるアプローチを紹介します。
あふんばかりの愛が、どこでいつ分断されてしまったのか。
あふれんばかりの愛は、自分のなかにあるのだろうか。
禅的な「公案」という問いかけの技法を使うことで、問いかけられた人は分断されてしまった回路を見出します。
またタントラ的なアプローチを使うことで、愛という名のもとに実際にはどんなことをしているかに気づくよう目が開きます。
あふれんばかりの愛を再発見する試みは、思いもよらなかった自分との懐かしい出会いになるでしょう。
この懐かしい自分と出会う体験は、今週末5月18ー19日東京・五反田で体験できます。
※ボタンをクリックしてもお申し込みにはなりません。
この記事のトピックに合わせて読みたいおすすめ本
禅の十牛図が語られたOSHOの講和のなかでも、秀逸の一冊です。
自分とは何者なのか。
わたしとは誰なのか。
じっくり読みたい本です。
究極の旅
posted with ヨメレバ
オショー・ラジニーシ/スワミ・プレム・プラブッダ
楽天ブックス
Amazon
Kindle