「恐怖症<フォビアphobia>」とは何か?
[aside type=”normal”]どんな意味なのか
Wikipediaによれば ”恐怖症(きょうふしょう、英:phobia)は、特定のある一つのものに対して、心理学的および生理学的に異常な恐怖を感じる症状である。”
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この恐怖症という言葉を一人歩きさせたくないという思いもあるのであまり使いたくはないので、便宜上ここでは英語でphobiaとしておく。
先日Facebookで英語でシェアした私のphobia物語を日本語で、そして加筆したものをシェアしたいと思う。
衝撃による記憶喪失
幼稚園に通っていた頃だと思う。ある日わたしは近所の子供達にいいものがあるよと呼ばれ、子供達が群がって円陣組んでいたところに首を突っ込んで真ん中を覗いた瞬間ある生き物が酷くつぶれて死んでいた光景を目のあたりにした。その瞬間自分に何が起こったのか覚えてない。どうやってその場から離れたのかも覚えていない。衝撃が圧倒的だったために、思い出そうとしてもそこにいたる記憶の糸が千切れてしまった。
以来その生き物に対して極度の恐れを抱くようになった。その生き物の名前をここに書くこともできるけれど、今でもそれはやはりしたくないので「それ」としておく。
わたしのことを少し知っている友人たちなら全員がよく知っている。わたしは「それ」が死ぬほど怖くて、漫画やアニメキャラクターとしても目にしたくもないし、「それ」の名前を声に出したくもない。ましてや「それ」と出会うことなど自分の限界を想像以上に超えてるから想像すらできない。想像なんかしたくない。
「それ」に対して何も特別な感情や心理的な恐怖がなければ取るに足らないことだし「なんであんなかわいい生き物を怖がるの?」と人は言う。たくさんの人からそう言われ続けてきた。「それ」が可愛いと思っていて、「それ」が好き!っていう人もいる。
わたしの友人は「それ」(ある特定の種類だった)がとっても大好きで、本当ならペットにして自宅に飼いたい!けれど、餌を取得するのがとても困難だから飼うことは難しい。と情熱的に語ってくれた。わたしは目をパチクリさせて「それ」をペットにしたいなどという人間がこの世に存在することが信じ難かった。
ヒーリングプロセスは過去と出会うこと
瞑想と出会ってから、無意識という部屋にフタをして見ないようにしてきた百千万の魑魅魍魎(ちみもうりょう)と出会う機会も同時に与えられた。その中でもトップランキングになっていたのが、「それ」に対する恐怖だった。
「それ」にワークするための様々ヒーリングセッションを受けたし、グループも参加した。自分でもCDを購入して試してみたりもしたが私は以前と何も変わってなかった。私のなかの一部は「それ」への恐怖がいつか癒され克服できるだろうとは信じていなかった。また、ある部分はこの恐怖にすがりついて生きていたいとも思っていた。論理的に「それ」は私を傷つけるような生き物でもないし、噛みついたり殺したりもしないことも頭では理解していたが、それでもなお私は「それ」が怖いのだ。
内なる葛藤に対する選択は2つ
この怖くて怖くて排除したいのにもかかわらず、同時にそこにある恐怖にしがみついていたい。自分自身の矛盾に気づくやいなや、あぁ、もうこのことにワークするのもやめようと半ば諦めてた。落としたいのに落としたくない。向き合いたいけど向き合いたくない。相反するふたつが自分のなかで生き延びている場合、選択はふたつしかない。
- 見ないままで一生を過ごすか。
- まっすぐ向き合うか。
恐怖を手放す受容的なアプローチ法
自分が安心に感じられる方法はないかしら。そんなときに思い出したのが「こころでからだの声を聞く」だった。このプロセスは無意識のマインドに働きかける受容的な方法で、自分なりのやり方で「それ」にまつわる恐怖と手放したくない思いとの両方に話しかけ続けている。
小さな変化は起こってきた。昔のように「それ」に出くわした瞬間、完全に凍結して夜も眠れなくなるほどではなくなった。「それ」の存在を極端に否定することも薄れてきた。少しずつ少しずつ変化は起こっていた。
亀の一歩を歩みつつ、自分で自分を押しやることのない受容的なプロセスは「それ」を直接思い描いたり、「それ」を対話することもない。この優しいアプローチを地味に続けていたそんなある時のこと。
ヒーリング・セッションとの出会い
トラウマヒーリングのセッションを提供する女性に出会った。このヒーリング法はヨーロッパやアメリカでは広く普及し、多くのセラピストたちが自分のセラピーやヒーリング法と混ぜて使っている。
このメソッドは既存のヒーリング法と共存していくことができるということなのだが、私にとっては効果がなかっただけでなく、むしろ傷が癒されないまま塩を加えられたように感じていた。
彼女のセッションはこのトラウマヒーリング法だけを使うセッションで、他のメソッドを混ぜたりしないということだったので、会った瞬間「これだ」と直感的に感じてセッションを受け始めた。
数回におよぶ一連のセッションを通して、たくさんのことが起こった。深い癒し。自分のシステムのなかで凍結したままだった部分が溶け始め、ダムが関切ったように圧倒的なほどのエネルギーが流れ始めた。涙と歓喜とともに。
以来、何がが完全に変わった。何かが完全に壊れ、溶けていった。
未だに私は「それ」が嫌いだし、「それ」を見たいとも思ってない。数回のセッション後、もうこれ以上受ける必要を私も感じなかったし、セッションギバーである彼女も同じだった。
その後すぐに、通りで「それ」に出くわした。いつもそうだったように私は凍りつくような恐怖に一瞬おののいた。変わったのは、私は「それ」を見ることができていた。そして、呼吸が停止することもなく自分の息が出たり入ったりするのを見守ることができた。私にとって、それは信じられないほど素晴らしい一歩だった。
再生される過去の映像から自由になる瞬間
今こうしてパームツリーに囲まれたビーチ沿いの美しい部屋でしばしの休暇を楽しんでいるのだが、ほとんど二日に一回、台所かバスルームに訪問者がやってくる。部屋にチェックインした最初の夜から「それ」に歓迎された。小さい「それ」だがバスルームのトイレ脇に鎮座してた。私はフリークアウトし、助けを呼んで外に追い出してもらった。最上階だっていうのに、どうして私のところに現れるの? あの手この手を使って「それ」が現れないように工夫しても、何度もやってくる。
今朝トイレに座り、窓際においてあるティッシュをとったら、その背後に静かに座っている「それ」がいた。小さい「それ」だった。
わたしはフリークアウトしなかったし、叫びもしなかった。助けも呼ばなかった。呼吸も止まっていなかった。わたしは「それ」を見て自分にこう言った。「あ、また来た。」
考える隙をマインドに与えず部屋に戻りすぐさまiPhoneを手にし、バスルームに戻って、生まれて初めて「それ」を写真に収めた。
それをはっきりと大きく見えるほど近くに行って撮ることはできなかったし、このブログに「それ」の写真を載せることもしないけれど(Facebookには掲載してます)わたしにとっては今日は偉大なる歴史的瞬間なのだ!
「それ」がphobiaになった出来事が自分のなかでノンストップの映像となり、とめどなく再生し続けていた。その再生許可をしていたのは他の誰でもなくわたし自身なのだが、ようやく停止ボタンを押すことができた自分を褒めてあげたい。
「それ」を見た瞬間、そこには何かしらの感情の波はなかった。ほんの一瞬の出来事だったが、恐怖や怒り、憎しみや苦しみはどこにも見当たらなかった。その瞬間が祝祭。その瞬間の体験と理解、気づきが再び無意識の部屋へと放り込まれ、忘我の境地に追い込まれないよう今ここで書き留めておく。
その瞬間は、再生され続ける過去の映像から自由になった瞬間なのだ−−−。
癒しのすべては過去に関わること
そう、癒しはすべて過去に関わる。家族に刻まれた記憶。集合無意識に蓄積された記憶。肉体の記憶、エーテル体や感情体にもバイブレーションとしてそれは存在する。過去は重い。ヘビーだ。過去をどれほど遡っても終わりはない。一体どこまで戻ればいいんだろう?
一体どれだけの過去生があるのか誰にもわからない。今世だけでも大変だというのに、どの過去生まで行ったら気が済むか知れない。過去生に直接働きかけるのは片足を挙げた状態で、もう片方の足もあげるようなものだ。
セラピーや瞑想状態にあるときに、過去生がフラッシュバックとして訪れることもある。それが起こることはあっても、それに対して働きかけることには興味はあまりない。過去生で起こった出来事が現在にどのように影響しているか、今の人生が困難なのは過去生で起こったある出来事ゆえなのだ云々。。。
これはとても興味深いし、なるほどそうなのかと思ったこともあるが、それはそれとして、そのときの理解のサポートして受け取るにとどめている。そこにはまったら泥沼。。。そんな風に感じている。
癒しのプロセス中に瞑想を続けることがどうしても必要な理由
癒しのプロセスに関わっている期間はクライアントもセラピストも同じだ。強力な浄化力を持つ瞑想を同時に続けていないと、過去に引っ張れたまま宙ぶらりんになってしまう。
なぜなら、癒しのプロセスは過去に起こったことへの働きかけだからだ。後ろ向きという言葉はあまりにも強い感じがあるけれど、癒しを必要としているのは過去。ヒーリングのすべてが過去に関わることなのだ。今この瞬間に癒しを必要とするものなど存在しない。
瞑想は今ここに関わる。
瞑想は、過去も未来にも関わらない。現在にのみ関わる。今この現在だけ、今この瞬間だけにとどまることができたら問題は何一つない。わたしの恐怖症も瞑想のなかにあるときには、存在すらしていない。しかし、その過去の出来事を現在にとどまることの妨げとして利用していた。とても狡猾に。自分を騙すための最高の脚本を用意して。
癒しのプロセスと瞑想は人生を進んでいくために欠かせない相棒なのだ
今にかかわる瞑想と、過去にかかわる癒しのプロセスを同時進行させていくことを勧めたい。ある日突然それがわたしに起こったように、それはいつ誰にどんな風に起こるかしれない。そのときに醒めて気づいていることができるよう、日々の瞑想実践を続けていきたい。
そして私は今も、「こころでからだの声を聞く」を続けている。あのトラウマヒーリングセッションが「成功」した最も大きな要因は、やはりこの瞑想法を自分が続けていたことだという理解に達している。
無意識の一部と対話することは、つかみどころのない雲のように思えるのだが私に起きたように飛躍が起こる下地をつくり、ジャンプが起こることを許し、ジャンプの後も継続して自分を世話することが可能になるのだ。
繰り返しになるが、
瞑想は今ここに関わる。
このことがどれだけ偉大な現象なのか。自身の体験を通して伝えたいと思う。
癒しは過去に関わり、
瞑想は今ここに関わる。
追記その1
わたしが受けたトラウマヒーリングセッションの技法は、ピーター・レビン氏著Waking the Tigerから来ている。残念ながら日本語版は出版されていないのですが、英語で読んでみようと思う人はぜひトライしてみてね。
追記その2
この記事が公開されたのは2016年12月なのですが、実は同年10月には日本語本「身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア」という長文のタイトルで発売されていました。
日本語で読めますので、是非手に取ってみてください。
この記事で紹介した瞑想法やヒーリング、個人セッションについてもっと知りたい方はまず私たちに問い合わせてください。
どんな小さな質問でも結構ですので気軽に声をかけてみてください。
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