「未知への扉」 第2章: サニヤス・・最後の決断 (1971)
1971年、ボンベイ、ウッドランド・アパートメントで行われた、OSHOによる最初の英語の講話
質問:OSHO、あなたはなぜあなたのもとにやって来るほとんどすべての人にサニヤスを授けられるのですか?あなたにとってサニヤスはどういうものであり、それにはどんな義務が伴うのですか?
私にとって、サニヤスとはそれほど深刻なものではない。生そのものからしてそれほど深刻なものではない。そして、深刻な人には必ず生気が欠けている。生とは何の目的も持たず、横溢しているエネルギーにすぎない。だから、私にとって、サニヤスとは目的を持たずに生を生きること、仕事ではなく遊びとして生を生きることだ。
いわゆる深刻なマインドというのは病んでいるので、遊びを仕事に変えてしまう。サニヤシンはそれとまったく逆のことを、仕事を遊びに変えることをしなければならない。この生全体をたんなる夢、夢の行為と見なすことができたら、あなたはサニヤシンだ。生を夢、夢のなかのドラマだと見なす人は、放棄している。放棄とは世間を捨てることではなく、姿勢を変えることだ。世間を変えようとする姿勢にはどこか深刻なところがある。
だからこそ、私は相手を選ばずにサニヤスを授けることができる。私にとっては、イニシエーションそのものが遊びだ。私はどんな資格も求めない・・あなたに資格があろうとなかろうと関係ない。資格とは何か深刻なことをする時に求められるものだからだ。存在しているというただそれだけで、すべての人に遊ぶ資格が充分備わっている。遊べばいい。資格などなくてもどうということはない。ことの全体が遊びにすぎないからだ。私がどんな資格も求めないのはそのためだ。
また私のサニヤシンにはいかなる義務もない。サニヤシンになった瞬間、あなたは全面的に自由になる。それは、今やあなたが決断したということだ。そして、これが最後の決断になる。あなたはもうこれ以上いかなる決断も下す必要はない。あなたは最後の決断を下したのだ・・決断をせずに生きるという、自由に生きるという決断を。
決断を通して生きる者は、決して自由ではありえない。そういう人は、過去に決断を下したために、いつも過去に束縛されている。未来に向けて決断を下すことは決してありえない。なぜなら未来は未知であり、下された決断はすべて過去に束縛されているからだ。サニヤスへのイニシエーションを受ける瞬間、あなたは地図のない、計画のない未来へと参入してゆく。もはやあなたは過去に縛られてはいない。あなたは自由に生きてゆく。つまり、今やあなたは演じ、戯れ、自分に何が起こってもそれを受け容れてゆく。不確実さのなかを生きてゆく。
名前を放棄したり、財産を放棄したりすることは、真の不確実さではない。そういうのはきわめて皮相な不確実さだ。マインドは同じままだ。財産を確かなものだと考えているマインドは少しも変わっていない。財産ですら少しも確実なものではない。財産をすべて手にしていたところで、あなたは死んでゆく。家ですら少しも確実なものではない。あなたは家のなかで死を迎える。「私は放棄した。今や私は不確実さのなかに生きている」と考えるマインドの中には、財産、家、友人、家族は確かなものだという誤った見解が今もなお強く残っている。
過去に縛られずに生きるマインドだけが、そういう人だけが、不確実さのなかに生きている。これはひじょうに多くの含みがある。なぜなら、あなたが知っていることはすべて過去から来ているからだ。あなたのマインドさえもが過去の一部だ。だから、知識を放棄する者こそが、真に何かを放棄している。あなたそのものが過去から来ている。あなたとは蓄積された経験にすぎない。だから、自分自身を放棄する者はあるものを放棄している。あなたの欲望、あなたの希望、あなたの期待、そういったものすべてが過去を確かなものにする。自分の過去を放棄する者は、自らの欲望、希望、期待を放棄している。
今やあなたは、まさに虚空、無、何者でもない者のようだ。サニヤスとは、何者かであるという一切の主張を投げ捨てることだ。今やあなたは、身分証明書を失い、何者でもないありかたのなかへと動いてゆく。だから、これは、あなたのマインドが下す最後の決断であり、それによって過去は閉ざされる。自己同一化は壊され、連続性はそこにない。あなたは新しい。あなたは再誕生している。
生きている者にはみな不確実さのなかに生きる資格が与えられている。本当に生きようとするなら、人は不確実さのなかに生きなければならない。安定しようと計らうことはすべて生の放棄だ。安定すればするほど、あなたは活気を失ってゆく。あなたが鈍くなればなるほど、安定感は増す。そして、その逆もまた真だ。例えば、死人は死ぬことができないから、死をものともしない。死人は病気になれないから、病気をものともしない。死人はすこぶる安定しているから、死人の目には生きつづけている者たちが愚かに見えることだろう!
生きている者たちは不確実さのなかに生きている。本当に生き生きとしていれば、あなたは不確実だ。不確実であればあるほど、生は躍動する。したがって、私にとってサニヤシンとは、どこまでも、最高度に、最大限に生きようと決意した者をいう。それは両端から燃えている炎に似ている。
私のサニヤスには義務は一切ないし、束縛も一切ない。あなたはいかなる規律にも拘束されない。不確実さを規律と呼びたいなら、それはまた別な話だ。だが、当然それは内なる規律になる。あなたは無政府主義者になりはしない。いいやそうではない。私は、無政府主義者になるとは言っていない。無政府主義は秩序、組織と常に切り離せない関係にある。秩序を放棄する場合は、あなたは決して無秩序にはなりえない。それは秩序を否定することではなく、たんに放棄するということだ。
放棄は、ここでは調和するという意味になる。それは、あなたが他人のために演じるたんなる演技、ゲームにすぎない。あなたはそのことで深刻になったりしない。それはゲームのルールにすぎない。左を歩いたり、右を歩いたりするのは、他者のため、交通のためであって、それに関して何か深刻なことがあるわけではない。そこには何も深刻なことはない。だから、サニヤシンは無秩序にはならない。だが、自分自身に関する限り、自らの内なる意識に関する限り、もはや秩序はなくなる。
これは無秩序になるということではない。無秩序は常に秩序の一部だからだ。秩序があるときには、いつでも秩序が乱れる恐れがある。秩序がなければ、秩序が乱れることもない。そこには自発性があるからだ。瞬間から瞬間へとあなたは生きる。瞬間から瞬間へとあなたは行為する。一瞬一瞬が完結している。あなたが決断するわけではない。どうやって行為するかを決めるわけではない。その瞬間がやって来たら、あなたは行為する。前もって決断することもなく、前もって計画を立てることもない。
その瞬間があなたにやって来る。あなたはその瞬間に遭遇し、何が起こっても、受け容れる。あなたは、自分の内側から湧いてくる新しい規律、刻一刻と変化する規律をいっそう感じるようになる。それはひじょうに異なる次元だ。だから、それを明晰に理解するほうがよいだろう。あなたが前もって何をすべきかを決めておくのは、自分がその場で臨機応変に行為できるほど意識的ではないと思っているからだ。あなたには自信がない。前もって決めておくのはそのためだ。
だが、それでもあなたは決断してゆく。その瞬間に行為できもしないのに、どうして前もって決断できるだろう?今のあなたには経験が足りないが、その瞬間が来るまでには、さらに新しい経験を積んでいる。明日の私を信じることができなくて、どうして今日の私を信じることができるだろう?前もって決めておかねばならないとしたら、何も意味をなさなくなる。それではものごとを台無しにするだけだ。
私は今日決めて、明日実行に移す。何もかもが変わってしまっている。すべては新しいのに、決断は古い。そして、その瞬間に応じた行動がとれなければ、やましさを覚える。だから、前もって決めなさいとあなたに教えた者たちはみな、罪悪感をつくりだしている。実行しなければ、あなたはやましい気分になる。実行しても、思いどおりにはゆかないから、欲求不満がついてまわる。
だから、私は「いかなる決断にも縛られてはいけない。そうすれば自由になる」と言う。一瞬一瞬、そのつど行為が起こるにまかせ、その瞬間、あなたの全存在に決めさせるがいい。行為が起こるその瞬間に、決断を起こさせるがいい。決して決断を行為に先行させてはいけない。さもなければ、行為は決して全一なものとはなりえない。
前もって決めるときには、頭で決断していることを憶えておきなさい。あなたの全存在はそのなかにない。その瞬間がまだ実際には来ていないからだ。私が誰かを愛していて、彼または彼女に出会ったらこのように振る舞おう・・こう言おう、こうしよう、あんなことはしないでおこう・・と決めるとしたら、それは頭で行なう知的なものでしかありえない。それは決して全一ではありえない。その瞬間が来ていないからだ。実存全体が挑戦を受けていないのに、どうして全存在が行為しえるだろう?
どう振る舞うべきかを決めてしまったら、その瞬間がやって来ても、私は全存在をあげて行為できない。なぜなら、決意がそこにあるからだ。前もって決めたことをただ真似し、模倣し、くり返すことしかできない。私は贋者になる。全一ではないために、私は本物ではなくなってしまう。私にはどう振る舞うべきかという青写真があり、それに従って行動する。またしてもこれは、全身全霊の行為ではなく、頭だけで行なう行為になる。うまくゆこうが、しくじろうが、私が失敗したことに変わりはない。私の実存全体が関与していないからだ。私は愛を感じない。
瞬間がやって来るのを許しなさい。瞬間をあなたに挑ませるがいい。そして、あなたの全存在に行為させるのだ。そうすれば、その行為は全一になる。あなたの全存在が行為するようになる。あなたは身ぐるみそのなかにいる。この全一さからありうる最上のことが起こる。それは前もって下された決断からは決して起こらない。それゆえに、サニヤスとは、過去に縛られずに一瞬一瞬を生きることだ。
私がマーラを授けたり、新しい衣服を授けたりするのは、もう決断を下さなくてよいということを、たんにあなたに思い起こさせるためだ。マーラや衣服のおかげで、あなたはもう自分が古いものではないことを思い出す。この自覚が充分に深まれば、それを憶えておく必要はない。そうなったら、ローブを投げ捨て、マーラを投げ捨てればいい。落とすときが来たら、ただ落とせばいい。落とそうと決断してはならない。それらを身につけることで私に拘束されてはいけない。それを投げ捨てるときが来たら、投げ捨てるがいい。
だが、サニヤシンとしての自覚がひじょうに深まって、眠っていても自分がサニヤシンであると自覚できるようになるまではだめだ。黄褐色のローブが夢のなかにさえ現れるようになったら、それを投げ捨てるがいい。そうなったら、それに意味はない。無意識さえもがそれを憶えていて、どんな状況においてもそれを忘れられなくなれば、それを身にまとう必要はない。黄褐色のローブをまとうことは、あなたが全一なる実存に向かうのを助け、全一なる行為に向かうのを助ける方便にすぎない。
私は、ほんの一瞬でも私とめぐり合わせた者たちすべてに、ひとり残らずサニヤスを授けつづける。前にも言ったように、明日のことは、まったくわからないからだ。私は待っていられない。あなたがこの瞬間に私のもとへやって来るなら、やらなければならないことはすべてやっておかなければならない。私には待つことができない。なぜなら、明日のことは、明日、何が起こるのか分からないからだ。私は計画を立てられない。だから、あなたが私のそばにいる瞬間に、やるべきことはすべてその場でやっておかねばならない。それを先に延ばすことはできない。というのも、私にとって未来は存在しないからだ。
私のサニヤスは伝統的なサニヤスではない。それはまったく新しい概念だとも言えるし、完全に忘れ去られた遠い古代の概念だとも言える。どちらの呼び方をしてもいい。それは最新のものであると同時に、最古のものだ。真のサニヤスはいつでもこのような形で存在してきた。だが、常に真似をする者たちがいた。それは防ぎようがない。いつでも真似をする者たちがいるし、これからもいるだろう。彼らはすべてを規律にしてしまう。なぜなら、真似ができるのは規律だけだからだ。
サニヤスとは、模倣しえない何かだ。自由を模倣することはできない。サニヤスの真似をすることは断じてできない。ところで、真似をする者たちにできることは何だろう?彼らはそれから体系をつくりだす。真似をする者たちはいつも体系をつくりだす。サニヤス以外のものは、これほどひどく損なわれることがない。なぜなら、通常生きられている生は模倣以外の何ものでもないからだ。模倣がどこまでも続けられる。世界全体が模倣している。あなたの受けたしつけ全体が模倣によるものだった。言葉や道徳、社会や文化・・それらはすべて、模倣を通して習得される。すべてが模倣を通して吸収される。
模倣はサニヤス以外の場所では至るところで成功をおさめる。サニヤスの場では、模倣は多くのことを台なしにする。他のどの場所でもそこまで破壊的ではない。というのも、他のどの場所でも模倣がルールだからだ。言語がある限り、あなたは自由ではありえない。あなたはそれを真似しなければならない。社会構造がある限り、あなたは自由ではありえない。あなたはそれを真似しなければならない。模倣者はあらゆる場所で成功をおさめる。
サニヤスという全面的な自由の次元においてのみ、模倣はきわめて破壊的なものになる。サニヤスという次元そのものが模倣とはまったく正反対のものだからだ。模倣はサニヤスを破壊する。イエスは模倣されている。「キリストの模倣」という題名の書物さえある。いつであれサニヤスが模倣されると、真のサニヤスは跡形もなく消え去る。だから、私のサニヤスにはいかなる拘束もないと言うとき、私は、模倣すべきことも一切ないという意味で言っている。
あなたは全面的に自由だ。私はあなたを開け放たれた状態へと投げ入れる。イニシエーションとはまさにそのことを言う。それはあなたを委縮させるのではなく、あなたに開け放たれた大空を与える。開け放たれた大空を飛べるようにあなたを押しやる。もちろん、航路もなければ、道路地図もない。そんなものはありえない。大空にはいかなる道もありえない。あなたは独りで飛ばなければならない。あなたは自分だけを頼りにしなければならない。あなたは自身の存在が、ただひとりの道連れに、唯一の道連れになる。
生はまさに開け放たれた大空に似ている。それは地上の道のようではなく、その跡を辿ることはできない。辿ることは不可能だ。あなたは独りで進まなければならない。イニシエーションとは、今や私はあなたを独りのなかに押しやるということだ。もうあなたは完全に独りであり、誰にも、私にすら頼っていない。それには勇気が必要だ。真似をするのはやさしい。追従することは簡単だ。誰かに頼ることは簡単だ。だが、地図もなく、規範もなく、体系もなく、完全に独りであるには、最大の勇気が求められる。
サニヤシンとは勇気ある者のことだ。この勇気は、真似のできるものではなく、生きることを通して開発されねばならない。あなたは過ちを犯すだろうし、道をはずれることもある・・それはそのことのなかに含まれる。だが、あなたは過ちを犯すことで学び、道をはずれることで正しいものに巡り会う。他に方法はない。あなたは幾多の困難を通り抜けなければならない。この独り歩き、この単独飛行・・人はこの苦行を通り抜けなければならない。
また、私のサニヤスは、別の意味合いでも違っている。古いサニヤス、今日でも優勢ないわゆるサニヤスは、精神霊的な放棄というよりも、社会的な放棄といった色合いが強い。その社会構造ですら、精神霊的な色合いよりも、生理的な色合いが強い。一方、私のサニヤスは、基本的に精神霊的だから、あなたはどこにいても、どこにあろうとサニヤシンでありうる。求められるのは、より深い、内面的な、霊的投入だ。私の見るところでは、生理的な側面に巻き込まれるほど、内側に深く入ってゆくのがむずかしくなる。生理的に巻き込まれてしまったら、決してそこから出られなくなる。本質的な無理があるため、決してそこから出られなくなる。
例えば、誰かが欲望を超えようと努力しているとすれば、その人は不可能なことを求めてあがいていることになる。なぜなら、欲望は自然なものだからだ。あなたの肉体は欲望なしでは存在できない。肉体に執着しつづけても、欲望は依然としてそこにある。当然、少なくなってはいるが、欲望はそこにある。肉体が弱くなればなるほど、欲望は強く感じられなくなる。だから、肉体を次第に弱めてゆくことはできるが、あなたが死ぬまで肉体は欲望を持ちつづける。
あるのは欲望だけではない。どうしても必要なものがある。こういった必要を満たしてやらねばならない。満たしてやればやるほど、それらはあなたを悩まさなくなる。それらの要求が少なくなればなるほど、それには手間が掛からなくなる。だから、もし自分の生理的な必要と闘っているとしたら、あなたは一生を無駄にしてしまう。このプロセス全体、この古いサニヤス全体が否定的であり、何かに対して闘っている。
言うまでもなく、そうすることで自我(エゴ)は強まる。闘えば、必ず自我は強くなってゆく。欲望を押し殺せたら、あなたはいっそうエゴイスティックになる。肉体の特定の必要を否定できたら、あなたはいっそうエゴイスティックになる。どのような形の闘いも、常に自我を満足させ、自我を充足させる。
私にとって、サニヤスとは肯定的なものであって、否定的なものではない。それはあなたの肉体の必要を否定するものではない。あなたの表面的な必要を否定するものではない。それはあなたの内面で発育し、成長するものだ。何かと闘うことではなく、何かを成長させるために、あなたの全エネルギーをそれに向かって注いでゆくことだ。
あなたの実存は成長し、成熟しなければならない。そして、あなたの実存が成長すればするほど、あなたの自我は少なくなってゆく。ひとたびあなたの実存が成長を遂げると、どれが必要であり、どれが欲望であるかがわかるようになる。そうならない限り、決してわからない。必要と欲望を識別することは決してできない。
欲望は常に気違いじみている。必要には常に分別がある。必要を否定すれば、身を滅ぼすことになる。また、欲望を増やしつづけても、やはり身を滅ぼすことになる。必要を否定しつづけても自分を殺してゆくことになり、欲望を増やしつづけても違う形で自分を殺してゆくことになる。欲望が強くなり過ぎたら、欲望に圧倒されてしまったら、あなたは気が狂ってしまう。緊張に耐えられなくなる。必要を否定しても、耐えがたい緊張が生じてくる。
だから、自滅的なマインドにはふたつのタイプがある。必要を否定しつづけるマインドと、単純な必要を複雑な欲望に変えつづけるマインドだ。欲望と必要を外見で判別することは決してできない。あなたにとってどれが欲望で、どれが必要であるかを他人が決めることはできない。尺度となりうるのはあなたの自覚だけだ。ある者にとっては必要なものも、別の者にとっては欲望になるかもしれない。だから、既成の答えを与えるわけにはゆかない。
言えるのはこれだけだ。それなくしては生きてゆけないもの・・それが必要のぎりぎりの定義だ。だが、最終的に判別するのは自分自身の自覚だ。が、それもまたいつも通用するわけではない。なぜなら、今日は必要であるものが、明日には欲望に変わるかもしれないからだ。この瞬間には必要であるものが、別の瞬間には欲望に変わるかもしれない。だが、あなたの内側で肯定的な気づきが起こってしまえば・・自分のマインドとその狡猾な手口に気づいてしまえば、自我と自らを強化する自我の手口、自らを養う自我の手口に気づいてしまえば・・あなたは区別をつけられるようになる。
だから、私は否定的ではない。サニヤス、私のネオ・サニヤスは、完全に肯定的だ。それはあなたの内側で何かを成長させてゆく。私はあなた自身の実存に対する否定的な姿勢ではなく、肯定的な姿勢を与えようとしている。あなたは何ひとつ否定する必要がない。だが、もちろん多くのことが否定されるだろう。あなたによってではなく、ひとりでに・・なぜなら、内側に向かえば向かうほど、あなたは外界から退いてゆくからだ。内的実存が貧しければ貧しいほど、人はますますその代用を外界に求めなければならなくなる。彼は外に向かって拡張しつづける。
だが、外に向かって拡張してゆく自己と格闘してはいけない。自分自身である内なる種子に働きかけなさい。そうすれば、その種子はすばらしい高みにまで成長してゆき、外に向かうこの無意味な行動はおのずと止むだろう。内なる豊かさをひとたび知ってしまえば、外の世界にはそれと較べうるものなどない。内なる至福をひとたび知ってしまえば、楽しみは馬鹿げているし、娯楽の名のもとに行われるものなどみな浅はかで、愚かしい。内なるエクスタシーをひとたび知ってしまえば、それはただ崩れ落ちてゆく。そうなったら、幸福、喜びとして知られていたものは、全て欺瞞に他ならないことがわかる。
だが、前もってそれを知ることはできない。自ら内なる幸福を体験しない限り、このようなことは言えない。あなたがそれを口にするとしたら、もっと大きなごまかしをすることになる。
肯定的な姿勢としてのサニヤスは、全く異なる次元を指している。あなたは今いる場所に留まることができる。何であれ自分がしていることをやりつづければいい。外面的な変化が即座に求められることはない。もちろん、様々な変化が起こるだろう。だが、それらはやってくる。起こるときには起こらせ、それを起こそうとしたり、起こそうと努力してはいけない。無理に変化を起こさせてはいけない。そして、私の見るところでは、来るべき世界には肯定的なサニヤス、肯定的な放棄に向かうより大きな可能性がある。
「自己否定」というサニヤスの消極的概念がかつて成り立ちえたのには様々な理由がある。理由のひとつは社会構造の様式にある。農業社会では幾人かの人々はまったく働かなくてもよかった。だが、社会が工業化すればするほど大家族制度は成り立ちにくくなってゆく。ゆるい経済構造のもとでは大家族も存在できたが、計画経済が発展するにつれて、大家族というものは成り立ちにくくなる。
今やサドゥ(行者)や僧侶達は搾取しているように見える。もはや彼らを尊敬するわけにはゆかない。その存在を許すわけにはゆかない。そして、私が見るところでは、誰もが自分のできることをやらなければならない。人は自分が生きている社会に貢献しなければならない。搾取を続けてはならない。人は搾取をすべきではないし、宗教的な人には搾取などできない。宗教的な人までもが搾取するとなれば、他の者たちが搾取しないよう期待することはできない。
私にとって、サニヤシンは搾取者にはならない。彼は生活の糧を稼ぐ。彼は消費するだけでなく、物を生産する。僧侶は非生産的であるという古い概念は、否定的な姿勢によく合致した。この肯定的な姿勢にはまた別の含みもある。例えば、サニヤスの古い概念は、多くのものを否定した。家族を否定し、セックスを否定し、愛を否定した。それは社会の幸福、あなた自身の幸福に寄与するすべてのものを否定した。古いサニヤスは否定したが、私は否定しない。
だが、それは奨励するという意味ではない。「否定しない」と言うことで、私はたんに「例えば、人がセックスを完全に超越するときがくる」と言っているにすぎない。それは別の事柄だ。だが、それは求められるものではない。自然にそうなってゆく。それはサニヤスを取る前に求められるものではない。サニヤスの後で起こるものだ。それが起こらなくても、罪悪感を覚えることはない。古いサニヤスはきわめて冷酷だった。それはサディスティックであると同時にマゾヒスティックだった。セックスが否定されたのは、セックスが幸福の一瞥を与えると見なされたからだ。
多くの宗教が幸福感を伴わないセックスを許してきた。子供をつくるために利用するのはかまわないが、セックスから少しでも幸福感を引き出してはならない、と。そうして初めてセックスは罪ではなくなる。つまり、本当はセックスそのものが罪なのではない。あなたは幸福であってはならない。幸福であることが罪なのだ。私に言わせれば、人間に与えられているものは何ひとつ否定されたり、抑圧されたりすべきではない。まず内なる開花を起こさせるがいい。そうすれば、エネルギーの経路の多くが変わり、同じ方向に流れなくなっているのがわかる。その違いは大きい。
セックスを否定すれば、愛も否定せざるをえなくなる。だから、セックスを否定するサニヤシンには愛が欠けてゆく。愛について語りはするが、彼らには愛が欠けてゆく。彼らは宇宙的な愛について語る。ひとりの個人を愛するよりも、宇宙的な愛について語る方がやさしいのが常だ。ひとりの個人を愛する方がむずかしい。全宇宙を愛するのはとてもやさしい。巻き込まれるものが何もないからだ。だから、否定という観点でものを考える者は、宇宙的な愛について語りはするが、個人の感情を否定したり、根だやしにする。
セックスを否定する宗教は、愛を否定せざるをえなくなる。なぜなら、愛にはセックスが伴う可能性が大いにあるからだ。だが、私の見るところでは、セックスが否定されるのではなく肯定的な成長を通して変容されるなら、愛を否定する必要はない。あなたは愛に満ち溢れることができる。そして、あなたが愛に満ち溢れていない限り、セックス・センターから解き放たれていないエネルギーを使うことはできない。それは破壊的なものになる。私にとっては、成長する愛こそがセックスを超越する唯一の道だ。
愛は成長しなければならない。愛は宇宙にまで届かなければならない。だが、そこから始めるべきではない。出発点は決して遠くにはない。遠くから始めるべきだと考える者は、自分自身をだましている。旅というものは、すべて近くから始めなければならない。踏むべき最初の一歩を終着点から踏み出すことはできない。まず人は愛にあふれる個人にならなければならない。そうすれば、愛が成長するにつれて、人は性的でなくなり、愛はさらに大きく広がってゆく。
私は何も否定しない。なぜなら、結局のところ捜し求められているものは至福だからだ。誰もが至福を捜し求めている。喜びを否定する必要はない。もちろん、至福の爆発が起こるとき、これまで喜びだと見なしていたものはすべてまやかしだったことがわかるだろう。だが、今のあなたには喜びを捨てることはできない。まず至福をやって来させなさい。
「肯定的な成長」という言葉が意味しているのはそのことだ。まず何かもっと大きなものをやって来させなさい。そうして初めて、より小さなものを投げ捨てることができる。投げ捨ててもあなたの自我が強められることはない。なぜなら、それを投げ捨てるとき、あなたは無用で価値のないものを投げ捨てているからだ。
放棄を口にする者たちは「これこれしかじかのものを捨て去った」と主張する。彼らは、そう言うことで意義あることは何ひとつ成し遂げられていないことを示している。彼らが何を放棄したにしろ、それらはすべて今なお彼らにとって意義あるものでありつづけている。それはそこに、彼らの記憶のなかにある。それは今なお彼らの心の一部をなしている。彼らは今なお所有している。確かに彼らはそれを放棄したが、自分に属していないものをどうして放棄できるだろう?だから、放棄について考えつづけているとしたら、あなたは未だに持っている。あなたは否定的な形で所有している。
もっと大きな現象、もっと大きな至福、もっと大きな幸福を知ってしまえば、あなたは何も捨てたりはしない。ものごとは、枯れ葉が樹から落ちるようにただ落ちてゆく。それに気づく者はいない。枯れ葉はただ落ちる。樹はそれを気にも止めず、傷痕も残らない。私に言わせれば、ものにはすべて起こる瞬間、熟す瞬間がある。成熟がすべてだ。
人は成熟しなければならない。さもなければ、いたずらにさまよい、いたずらに苦しみ、自分自身をいたずらに損なうことになる。人は成熟しなければならない。そうすれば、機会はひとりでにやって来る。放棄は、肯定的な成長を通して訪れる。私のサニヤスという言葉で私が言おうとするのはそのことだ・・肯定的な成長を通しての放棄。それは断じて否定的ではない。否定もないし、抑圧もない。
私はあるがままの人間を受け容れる。もちろん、多くのものは潜在していて、まだ発現していない。だが、あるがままの人間を非難すべきではない。非難されねばならないものなど何もない。人間は種子だ。種子を非難して、どうして樹を歓び迎えることができるだろう?私は、何の否定もせず、あるがままの人間を全面的に受け容れる。人間はこうでしかありえないとか、これが終着点だとは言わないだけだ。
私は、これは始まりにすぎないと言っているだけだ。人間は大きな樹へと成長しうる、神性のなかへと成長しうる種子にすぎない。ひとりひとりの人間が神になりうる。だが、今あるがままの人間は種子にすぎない。種子は庇護されねばならない。種子は愛されねばならない。そして、種子には成長のあらゆる機会が与えられねばならない。
サニヤスとは、自分が種子、潜在性であることをあなたが自覚するに到ったということだ。これは終わりではない。これは始まりにすぎない。今やあなたは、成長しようと決意しなければならない。その成長は自由を通して訪れる。成長は不確実さを通して訪れる。種子はきわめて安全だ。樹はそれほど安全ではない。種子は閉じている、完全に閉じている。種子が死に、成長しはじめると、ただちにその潜在能力が呼び覚まされる。だが、危険がある。そこには不安がある。壊されてしまう恐れが大いにある・・ひじょうに繊細なものが宇宙全体と闘っている。だが、今のあなたは種子にすぎず、何の危険もない。
サニヤシンであるとは、今やあなたは成長しようと決意したということだ。そして、これは最後の決断だ。今やあなたは格闘しなければならない。今やあなたは安全を捨て去り、危険とともに生き、一瞬一瞬、その危険と向き合い、闘わなければならない。刻一刻と繰り広げられるこの闘い、この格闘、未知なるものへと参入してゆくこの闘い、未知なるものを支持するこの闘い、未知のなかを生きるこの生こそが真の放棄だ。
成長しようと決意することは偉大な放棄だ。それは種子に与えられている安全の放棄、種子に与えられている全体性の放棄だ。だが、この安全の代価はひじょうに高くつく。種子は死んでいる。それは潜在的に生きているにすぎない。種子は生きることもできるし、死んだままでいることもできる。成長して樹にならない限り、それは死んでいる。私の知る限り、成長しようと決意しない限り、未知なるものへとジャンプしようとしない限り、人間は種子に似ている。死んでいて、閉じている。
サニヤシンであるとは、成長しようと決意すること、危険な領域に入ってゆこうと決意すること、決断せずに生きることを決意することだ。これは逆説的に見えるが、そうではない。人はどこかで始めなければならない。決断せずに生きるためにも、人はどこかで決断しなければならない。不確かなもののなかへ入ってゆくことですらどこかへ向かうことだ。人はそうすることを決意しなければならない。
私はあなたが決断するのを助ける。私はあなたが決断できる状況をつくりだす。このネオ・サニヤスは、世界の中核そのものに行き着くことができる。それはあらゆる人のもとに届きうる。なぜなら、何も特別なものはいらないからだ。必要なのは理解だけだ。
明らかにしておきたいことがもうひとつある。このサニヤスは、いかなる宗教にも縛られない。この世に存在してきたサニヤスは、いかなる種類のものであれ、特定の宗教、特定の宗派の一部、一派をなしていた。これもまた安定を求める方策の一部だ。あなたは放棄するが、それでも属している。あなたは「私は社会を後にした」と言うが、それでもある宗派に属している。あなたはヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒でありつづける。あなたは何ものかでありつづける。
実際、サニヤスとは、宗教的でありながらいかなる宗教にも縛られないことをいう。またしてもそれは未知なるものへの大いなるジャンプだ。諸々の宗教は既知なるものだが、宗教そのものは未知なるものだ。宗派には制度があるが、宗教には制度がない。宗派には聖典がある。だが、宗教には存在のみがあり、聖典はない。このサニヤスは実在的であり、宗教的であり、非宗派的だ。
これは私のサニヤスがイスラム教徒のイスラム教を認めないとか、キリスト教徒のキリスト教を認めないということではない。違う。サニヤスが目指すのはそれとはまったく逆のことだ。それはキリスト教徒には真のキリスト教を与え、ヒンドゥー教徒には真のヒンドゥー教を与える。なぜなら、ヒンドゥー教のなかにもっと深く入ってゆくと、最後にはヒンドゥー教が落ちてゆき、宗教性のみが見いだされるからだ。キリスト教のなかに深く入ってゆけばゆくほど、キリスト教は影をひそめ、宗教性が際立ってくるからだ。あなたは、ただちに宗教性の中心そのものに行き着く。
だから「サニヤシンになることは宗教団体の一員になることではない」と言っても、私はキリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒を否定しているわけではない。重荷となった宗教の死んだ部分を否定しているだけだ。たんに生命を失った伝統を否定して、その覆いを取り除き、生きた流れを・・死物と化した伝統、死物と化した聖典、死物と化したグル(導師)の王国、死物と化した教会などのすべての背後にある生きた流れを再発見しているだけだ。
あなたは再び生きた流れを見いだしてゆく。生きた流れは常にそこにあるが、常に再発見されねばならない。ひとりひとりがそれを再発見しなければならない。それは伝えることができない。それは伝授することができない。誰ひとりその生きた流れをあなたに授けることはできない。授けられたものはすべて死んでしまう。
あなたは自分自身の内側を深く掘ってゆかなければならない。さもなければ、それは決して見つからない。したがって、私はあなたに宗教を与えているのではない。その生きた流れをあなたが見いだせるよう、あなたを押しているだけだ。それはあなた自身が見いだすことになる。あなた以外の誰にもそれは見いだせない。だから、私はあなたに何も伝授しているわけではない。
寓話をひとつ・・ある日のこと、仏陀は一輪の花を手にして現れた。彼は説法をすることになっていたのだが、沈黙したままだった。彼の話を聴きにきた人々は、仏陀は何をしておられるのだろうと訝しがりはじめた。時間が過ぎてゆく。こんなことはそれまで一度もなかった。仏陀は何をしておられるのだろう?彼らは、仏陀は話をされるのだろうかされないのだろうかと首を傾げた。やがて、誰かが「あなたは何をなさっているのです?私たちがあなたのお話を聴きにきていることをお忘れになったのですか?」と尋ねた。
仏陀は言った。「私はあることを伝えた。私は言葉で伝えることのできないことを伝えた。あなたはそれを聞いたかね、それとも聞かなかったかね?」それを聞いた者はひとりもいなかった。だが、ひとりの弟子・・ほとんど名も知られていない、ここで初めて知られる弟子・・マハカーシャッパという比丘が腹の底から笑った。ブッダは言った。「マハカーシャッパ、こちらにおいで。この花をおまえにあげよう。言葉で与えられるものはすべてあなたがた全員に与えたが、本当に意味のあるもの、言葉では伝えられないものは、マハカーシャッパに与える」
禅の伝統では何度も何度もこう問われてきた。「何がマハカーシャッパに伝授されたのだろう?」・・教外別伝。仏陀は何を言ったのだろう?マハカーシャッパは何を聞いたのだろう?そして、いつも誰かが知るたびに、再び笑いが起こる。そして、物語は謎のままだ。いつも誰かが理解するたびに、再び笑いが起こる。だが、学者が顔を合わせると・・彼らはたくさんの知識を持っているが、本当には何も知らない・・必ずその話の議論になる。彼らは何が聞かれたのかを決める。だが、知っている者は笑うだけだ!
偉大な禅師、盤珪(ばんけい)は言った。「仏陀は何も言わなかった。マハカーシャッパは何も聞かなかった」誰かが彼に尋ねた。「仏陀は何も言わなかったですって?」「その通り」と盤珪は言った。「何も語られなかったし、何も聞かれなかった。それが語られ、それが聞かれた。私は証人だ」すると、誰かが言った。「あなたはその場に居合わせなかったではないですか」盤珪は言った。「その場に居合わせる必要はない。『無』が伝えられたとき、証人はいらなかった。私はその場にいなかったが、それでも私は証人だ」誰かが笑った。盤珪は言った。「彼もまた証人だった」
生きた流れは伝えられない。それは常にそこにある。あなたはそこへおもむくだけでいい。それは近くに、すぐそこにある。それはあなたの内側にある。「あなた」が生きた流れだ。ところが、あなたは一度も内側に入ったことがない。あなたはいつも注意を外に注ぎ、外界に順応してきたので、そこに固着してしまっている。焦点が外界にあまりに固着しているので、あなたは内側にいるということがどういうことなのか想像することもできない。内側にいようとするときでさえ、ただ目を閉じているだけで、外側にいつづける。
内側にいるというのは、内も外もない心の境地にいるということだ。内側にいるというのは、あなたとすべてのものとのあいだに境界がないという意味だ。外部に何もなくなったときに初めて、あなたは内なる流れに到達する。ひとたび一瞥が起これば、あなたは変容を遂げている。あなたは解釈しえないものを知る。あなたは知性が解釈しえないものを知る。あなたは知性が伝えることのできないものを知る。
それでも人は伝えなければならない・・花や笑いを使ってでも。どんな形で伝えても違いはない。それらは仕草だ。私が口を使って話すのと、手に花を持つのとでは、どこに違いがあるのだろう?だが、仕草が目新しいと、あなたはかき乱されてしまう。さもなければ、それは口を動かすのと少しも変わらない仕草だ。私が声を出すのは仕草だ。私が沈黙するのは仕草だ。だが、仕草が新しく、馴染みがないと、あなたは何か違うことが起こっていると考える。違いは何もない。生きた流れは伝えることができない。が、それでも伝えなければならない。何らかの形でほのめかし、何らかの形で示さなければならない。
サニヤスを受ける用意が整う瞬間、その人は大いなる探究に向かう決意をしている。それはいつでもジャンプできるという私への意志表示だ。ある人が進んで変わろう・・古い自己証明を失い、新しい存在に生まれ変わろうとしているときには、ある人に準備ができているときには、資格などいらない。何も違いはない。この覚悟こそが資格だ。ある人に準備ができていれば、私はいつでも押すことができる。相手が辿り着くかどうかは関係ない。彼が始めるというそのことこそが驚異だ。
そのこと・・相手が辿り着くかどうかは少しも重要ではない。だが、人は始める。こうして始めることこそが偉大だ。辿り着くことは、それほど偉大なことではない。なぜなら、辿り着く者はすでにその力があって辿り着くが、始めようとしている者にはいつもその力が欠けているからだ。理解出来るかね?だからこそ、始めることが奇跡なのだ。
仏陀のような人は奇跡ではない。彼には能力があるからこそ辿り着く。きわめて数学的で、何の奇跡もない。だが、ある人がありとあらゆる欲望、憧れ、限界を抱えて私のもとにやって来て、始めようと考えたなら、それは奇跡だ。もし仏陀と彼のどちらかを選ばなければならないとしたら、私は彼の方を選ぶ。彼は奇跡だ・・まるで能力がないのに、とてつもない勇気がある。
私は、あなたがどこに辿り着こうとまったく関心がない。私は、始まりにのみ関心がある。あなたは始める・・そして私は、いったん始めてしまえば、終わりは半ば手中にあることを知っている。始めることが肝心だ。いったん始めてしまえば、あなたは成長しつづける。それは1日2日の問題ではない。それは時間の問題ではない。次の瞬間に起こるかもしれないし、何生かけても起こらないかもしれない。だが、始めてしまったら、あなたは二度と同じではない。
サニヤスを受けようというこの決意そのものが驚くべき変化だ。何度も生まれ変わっても目的を達成できないかもしれないが、あなたは二度と同じではありえない。この同じ状況は何度もやって来る。それは何度もくり返される。自由になろうと決意したこの思い出は、あらゆる隷属や束縛のさなかにあっても常にそこにある。自由になりたいというこの決意、自由へのこの憧れ、超越へのこの憧れは、常にそこにあり、機会が訪れるのを待っている。
だとすれば、誰かが始めることをどうして私が拒めるだろう?ある人に資格があるかどうかを知るために、誰に訊けばよいというのだろう?神自身があなたの存在、あなたの生を許し、決して「おまえには資格があるか?」などと尋ねたりしないのに、それを尋ねる私はいったい誰だろう?
私はあなたに生命を授けているわけではない。私はあなたに存在を授けているわけではない。私はあなたに自分自身を変容させる機会を与えているだけだ。神が喜んであなたに生命を授けているならば、たとえ限界や弱点があったとしても、あなたには資格があるにちがいない。神はあなたが存在することを許している。あなたは尊いにちがいない。神の目にすら、あなたは尊いにちがいない。だとしたら、あなたが始めることを拒む私は誰だろう?
ときにはグルたちが神以上に賢くなることがある。彼らは誰に資格があり、誰に資格がないかを決める。神が彼らのもとにやって来ても、彼らは神に資格があるかどうかを決めるだろう。誰かがやって来るときには、必ず神が来ている。だから、笑わないことだ。誰かがやって来るとき、来ているのはいつも神だ。なぜなら、神の他には誰も来ることができないからだ。
だとしたら、私のもとにやって来る者を拒む私は何様だろう?相手はそれを知らないかもしれない。相手はそれに気づいていないかもしれない。だが私は、神が神自身を探しているということに気づいている。そういうわけで、私は誰も拒めない。私にできるのは、ひとりひとりの始まりを祝うことだけだ。私がサニヤシンを差別したり、資格を要求したりしないのはそのためだ。
このサニヤスは、今や全人類に必要とされている。全人類がそれを必要としている。私たちは、生きた流れにあまりにも無自覚になっている。私たちは、内にも外にもある神性にあまりにも無自覚になっている。ひとりひとりがそれを自覚しなければならない。さもなければ、今ある状況が悪化の一途を辿り、人類は次の世紀に再起できなくなるおそれがある。状況は留まることなく悪化し続けてきた。
ダーウィンは人間は動物だったと考えたが、今や人間は自動機械だと考えられている。少なくとも動物には魂がある!彼らは魂を持っていたが、現代人にはない。やがて私たちは効率のよい自動機械でさえなくなるだろう。なぜなら、もっと優れたコンピュータが現れるからだ。もっと優れた機械が現れるからだ。あなたはただの機械になるだけでなく、ひどく凡庸な機械になる。
これは信仰の一種だ。これは知識ではない。だが、これは3世紀にわたって人間のマインドに強要されてきた信仰だ。今ではこのような態度が目立ってきている。それは他のどの信仰にも劣らない信仰だ。科学がそれを支持していようと変わりはない。それは信仰だ。だが、ひとたび人間がそれを信じはじめたら、人間の魂を蘇らせることはむずかしくなる。
だから、これからの時代、今世紀の終わりは、きわめて決定的なものになる。今世紀の終りが来たるべき世紀の運命を決める。これは決定的な時代になる・・人間は機械に、自然が生んだ機械的な装置にすぎないという信仰が蔓延するという意味で決定的なものになる。この信仰が蔓延してしまったら、再び生きた流れと接触することはひじょうにむずかしくなる。それはますます困難になってゆくだろう。今日ですら、それはひじょうにむずかしくなってきている。生きた流れを本当に体得している人は、この世界にほとんどいない。指で数えられるほどしかいない。
それについて語る者たちはみな、口先で語っているだけだ。本当に体得している人は、ごくわずかしかいない。そして、日毎にその数は減りつづけている。彼らに代わる者は二度と現れない。生きた流れを知る人々、内なるリアリティを知る人々、意識を知る人々、聖なるものを知る人々は、日を追うごとに少なくなっていっている。
この時代、今世紀の終わりは決定的なものになる。だから、とにかく始める用意ができている者たちに、私はイニシエーションを授ける。イニシエーションを受けた1万人のうち、ひとりでも目的地に辿り着くなら、苦労するだけの価値がある。この内なる世界を少しでも知るに到った者たちはみな行って、すべての戸口を叩いて欲しい。屋根の上に立ち、至福に満ちたもの、不死なるもの、聖なるものは本当にあると宣言して欲しい。その証人になりなさい。行って、その証人になりなさい。そうしなければ、人間は機械的な存在だという信仰が蔓延するだろう。今ならくい止めるのはやさしいが、後になれば、それを覆すのはむずかしくなる。
ある意味では、人間のマインドは昔よりも今のほうがしなやかで、どんな形でも取る用意ができている。それは古い信仰がすべて取り去られ、マインドはうつろで、どこかに帰属したいと渇望しているからだ・・たとえそれが機械的な信仰であってもだ。人間のマインドは、帰属感を与えてくれそうなもの、現実が何であるかを知っている気にさせてくれるものなら、それがどんなに馬鹿げたものであっても、つかみとる。人間のマインドはそれに縛られるようになる。
だから、一瞬といえども無駄にはできない。ほんの少しでも知っている者たち、一瞥でも得たことがある者たちは、それを他の者たちに語るべきだ。今世紀の終わりは、見かけほど短い時間ではない。ある意味では、何世紀よりも長いと言ってもいい。なぜなら、変化のスピードが猛烈に早いからだ。この30年は、30世紀に等しい。30世紀かかって為されえなかったことが、30年で為されうる。変化があまりに早いので、わずかに見える時間でさえもそれほど短いものではない。
人間と生きた聖なる流れのあいだに架かる最後の橋を消滅させ、破壊してしまう信仰が3つある。ひとつは、マインドは機械にすぎないという信仰だ。2番目は、共産主義・・人間と人間の社会的関係は経済的な現象にすぎないという信仰だ。そうなったら、ハートが果たす役割はない。人間は決定要因ではなく、経済が決定する。人間は経済力、盲目的な力の手中にある。そうなったら、意識には決定的な役割はない。社会構造が決定力を持つ。マルクスは「意識が社会を決定するのではなく、社会が意識を決定する」と言う。だとすれば、意識は無に等しい。決定力を持たないならば、意識など存在しないということだ。
そして3番目に、フロイト派の非合理という概念がある。人間は機械であるという信仰に姿を変えたダーウィン学派の概念、意識を経済力の付随現象に変えたマルクス主義者の概念、そして、人間は自然の力、本能の手中にあるというフロイト学派の非合理の概念の3つがある。人間はすべての行為をやむにやまれず行う。意識などというものは実際には存在しない。私たちは、自らが意識的であるという幻想的な観念を抱いているにすぎない。
この3つが今流行の宗教だ。イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教などの宗教は、どれもすたれている。仏陀も、マハヴィーラも、モハメッドも、キリストも、現代の預言者ではない。現代の預言者は、フロイトであり、ダーウィンであり、マルクスだ。この3人はこぞって自由に反対し、こぞって不死なるものに反対している。
私はあらゆる人を内なる世界に突き動かしつづけてゆく。生きた流れ、サッチタナンダ(真理・意識・歓喜)に辿りつき、全身全霊で生きることでそれを表現できる誰かが現れるかもしれないという万にひとつの望みをかけて・・今それを生きる人がごくわずかでも見つかれば、人類の未来の進路全体が変化するだろう。だが、それは教えを通してではなく、生きることを通して初めて起こりうる。私がサニヤスを強調するのはそのためだ。それは生きることの始まりだ。
私は別の意味でもサニヤスを強調する。あなたは「外側を変えなくてもいいなら、どうして衣服を変えるのですか?なぜ名前を変えるのですか?」と言うかもしれない。私はサニヤスを感染しやすいものにしたい。それはあなたにとっては思い出すよすがとなる。他の人々には、サニヤスについて考えるきっかけとなる。人々が賛成しても反対してもかまわない。彼らはとにかく無関心ではいられない。
あなたの黄褐色のローブ(長衣)を見た瞬間、人はそれに賛成するか反対するかどちらかだろう。誰も無関心ではいられない。それについて考えるか、笑い飛ばすか、そのいずれかだ。あなたを出家したと見るか、気が狂ったと見るか、そのいずれかだ。だが、どちらにしても人は考えはじめる。そして、これらのローブが絶えず目の前にちらついていれば・・毎日、いやでもこのローブと何度も何度も接触せざるをえない羽目になれば・・それは感染力を持つようになる。相手はそれを無視しつづけるわけにもゆかない。相手は、それに対する態度を決めなければならなくなる。
私は宗教を時の話題にしたい。宗教はまったく時の話題にのぼらない。誰も宗教については語らない。誰もが政治について語るのに、宗教について語る者はひとりもいない。誰かが宗教について語っても、他の者たちは礼儀として黙認しているだけだ。彼らは社会的義務、日曜仕事として、説教をしたり耳を傾けているだけだ。今日では、自らの内奥の魂に何が起こっているか誰も気にかけてはいない。
宗教は時事問題として取り上げられ、時の話題にされねばならない。そうするためには、あらゆる手段を使わねばならない。それには生きたシンボルが必要だ。あなたはどこへ行っても、思考の波、感情の波を引き起こしている。あなたが傍らを通り過ぎるだけで、さざ波、雰囲気、状況が引き起こされる。私が衣服を変えることを強調するのはそのためだ。
だが、他にも理由がある。黄褐色は色々と役に立つ。色にはそれぞれ独自の波長、独自の吸収能力があるからだ。違う色のローブを身につけると、あなたは同じではありえない。白いローブを身につけているときは、黒いローブを身につけているときとは違う。黒いローブを着ていると、あなたの周囲や内側では、力をそいでゆくある悲しみが感じられる。知らないうちに、あなたは悲しくなる。この世界、この存在のなかにあるもので無意味なものなどは何もない。あらゆるものに意味がある。あらゆるものが特定の雰囲気を醸しだしている。
黄褐色を選んだのには多くの理由がある。ひとつには、日の出のような感覚をあなたに湧き起こさせるからだ。それは日の出の色だ。大気全体が生き生きと躍動しはじめ、見るに値する。あらゆるものが息づきはじめる。朝の光は黄褐色だ。その色は活気のある雰囲気・・息づき、振動している何かを醸しだす。だから、この色は、あなたが神性と共に振動できるように選ばれた。あなたは神性と共に躍動しなければならない。悲しみに宿を貸してはならない。悲哀に隠れ家を与えてはいけない。
あなたは24時間踊りの気分でいなければならない。黄褐色は、踊りの色だ。さらにまた、その色をいつも身につけていると、朝と同じ雰囲気があなたの身体のまわりに留まりつづける。1日中、同じ雰囲気がそこにある。それを感じ取り、それに調子を合わせることができたら、あなたは大きな違いを感じるだろう。ひとりが黄褐色を身に纏うのと、数千人がそれを身に纏うのとでは、効果がまるで違ってくる。量が質を変える。
仏陀は、黄褐色を纏った1万人の比丘たちを連れて町を訪れる。すると、町全体が新しい空気に包まれる。それは大いなる挑戦だ。その村は、1日中朝のように爽やかだ。どこにいっても黄褐色が目につくので、人々は一瞬もそれを忘れることができない。黄褐色は、特定の心理的な連想を引き起こす。
警察官というのは、職務を離れ、制服を脱いでいるときにはふつうの人間だ。顔つきさえ変わるのを見ることができる。今や彼はごくふつうだ。だが、制服を着ると、人が変わり、まったくの別人になる。彼は同じ人間ではない。彼の行動はすっかり変わってしまう。立ち姿も変わり、歩き方も変わる。
黄褐色はサニヤスと関連づけられてきた。その色は、悠久の昔から、何千年にもわたって用いられてきた。その色は集合的なマインドの一部になっている。周知の通り、サニヤスはもともと東洋の概念だった。それはまず東洋のマインドに始まった。少なくとも1万年のあいだ、東洋では黄褐色を使ってきた。あなたは幾多の生涯を通して黄褐色はサニヤシン(修行者)が身につける色であることを知っている。それは集合的なマインドの一部、集合的無意識の一部になっている。その連想はひじょうに強烈だ。
一度黄褐色を身につけはじめたら、太古の集合的なマインドが蘇ってくる。いにしえの記憶が再び浮上して、あなたを取り巻いてゆく。それはあなたの人格を変える。それはあなたを変える・・それはあなたのマインドの内部構造を変える。別の色を使うこともできるが、新しい色でそれと同じ連想を引き起こすのはむずかしい。それには時間がかかる。だが、今や時間は短く、一瞬一瞬がこの上もなく貴重だ。
だから、多くの人が、どうして黄褐色を選んだのか・・なぜ新しい色にしなかったのかと尋ねる。新しい色を使ってもいいが、それは役に立たない。もし1万年の猶予があれば、私は色を変えただろう。だが、今や時は短く、決定的で、この上もなく貴重であり、大きな危機が迫っている。だから、私はあなたの多くの過去世を使う。
あなたは、誰かが私のもとにやって来るたびに、私が無条件でサニヤスを与えていると思うかもしれないが、それは違う。私は来る人すべてにサニヤスを与えると言っているが、それは言葉通りの意味ではない。そのように見えるかもしれないが、本当に起こっているのはまったく別のことだ。誰がやって来ても、私はただちにその人を見抜き、その人でさえ気づいていない事柄までを知る。
例えば、昨日の朝、私のもとに来たある女性に、私はサニヤスを取りなさいと言った。彼女は当惑していた。彼女は考えた上で決断するために、少なくとも2日の猶予を下さいと言った。私は彼女に「2日のうちに何が起こるか誰にもわからない。欲張ってはいけない。今日、この瞬間に取りなさい!」と言った。だが、彼女が決断を下せなかったので、私は彼女に2日の猶予を与えた。次の朝、彼女はサニヤスを取りにきた。たった1日で、2日もかからなかった。私は彼女に理由を聞いた。「君には2日間の猶予があった。どうしてこんなに早く来たのかね?」彼女は言った。「明け方の3時に、突然、目が覚めて、私の内側深くにある何かが語りかけてきたのです。『行って、サニヤスを取りなさい』と」
それは彼女が下した決断ではなく、彼女の深くに根を張った無意識が下した決断だった。だが、彼女が部屋に入ってきた瞬間に、私は彼女を、彼女のマインドを見抜いていた。24時間経ったあとで彼女はそのことに気づいたのだ。だから、私が「サニヤスを取りなさい」と言う場合には、多くの理由がある。語りかける相手が変われば、その理由も変わる。相手は前世でサニヤシンだったこともあれば、長い旅のどこかでサニヤシンだったこともある。
昨日、私は彼女に別の名前を用意していたが、今日はそれを変えなければならなかった。なぜなら、それは彼女の優柔不断さに与えるはずの名前だったからだ。私は今度は彼女の役に立つ別の名前を与えようとしていた。今朝、やって来たときには、彼女は自分で決断を下していた。だから、あの名前はいらなくなった。私は彼女にマ・ヨガ・ヴィヴェックという名前を与えた。その決断が彼女のヴィヴェック・・彼女の自覚、彼女の意識を通してやって来たからだ。
例えば、マ・ヨガ・タオがここにいる。彼女は過去世で3度サニヤシンだったことがある。私は彼女にタオという名前を与えたが、それは彼女がある過去世で中国人の道教の僧侶だったことがあるからだ。彼女はそれを憶えていないかもしれない。だが、私は彼女にタオという名前を与えた。いつか自分の過去を思い出す日が来れば、なぜ私が彼女に中国人の名前を与えたのかがわかるだろう。その名前は今は関連がない。(彼女は中国人ではない)だが、自分が道教の僧侶だったことを思い出せば、彼女は即座にその名前をもらったわけを知るだろう。
すべてのものに意味がある。だが、それは明白ではないかもしれないし、あなたに説くこともできないかもしれない。長いあいだ、説かずに伏せておかねばならない事柄がたくさんある。あなたが受容的になればなるほど、私は多くのことを説くことができるようになる。あなたの共感能力が深まれば深まるほど、真理をより深く明かすことができるようになる。議論が理性的になればなるほど、明かせる真理は少なくなってゆく。理性で証明できるのは大して意味のない真理だけだ。より深い真理は理性では証明できない。
だから、理性が入り込む余地がないほど深く共感していると感じない限り、私はあなたに語れない。私は多くの重要な事柄について沈黙を守らなければならない。それは私が何かを差し控えているからではなく、明かすことがあなたの助けにはならないからだ。むしろ、それは害になるだろう。
(第2章より抜粋)