• 嘘をつくアートという名の中毒

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    取るに足りないようなこと、とりとめもない、どうでもいいようなことでも嘘をついてしまう習慣がある人は意外と多いのではないかと思う。朝起きてから夜寝るまで、自分に対して、そして他人に対してまったく嘘をつかずに過ごすことは皆無に等しいのではないかしら。

    真実に沿って、何であれ自分の真実に寄り添って生きたいと願う一方で、嘘をつくことをやめない。嘘は自分をきらびやかにするし、どこか特別な存在にしてくれる。

    自分という生身のままではなく、嘘というドレスを着ていた方が何かと便利。何かと好都合。何かとかっこよく見えるし、体裁がいい。よく見せたい、よく見られたいというエゴにとっては最高の仕立て。それが嘘だ。

    一度嘘をつくと、そこから自動回転装置のように嘘が一人でに周り始める。そして、それに沿うように次なる嘘をついていく。これは自分で作り出したゲームだ。自分で発明したゲームだから、こんなに楽しいことはない。誰がそのゲームを楽しんでいるのかといえば、プレーヤーはたった一人。自分自身だ。

     

    誰かに嘘をついても、相手はそれが嘘だと分からない。分からないようにつくのが嘘だ。バレてしまったら、その瞬間からそれは嘘ではなくなってしまう。だから、嘘をついているのは自分だけが知っている秘密であり、それが嘘だと知っているのは自分以外にはいない。

    他人は騙せても、自分は騙せない。口先からでたその言葉が、その内容が嘘であることを自分だけは十分知っている。確信犯というやつだ。

    ただ、嘘をつくのがあまりに習慣的・日常的になってしまって、そのうちに段々とそれが嘘かどうか自分自身でもよくわからなくなり、ついにはそれが嘘ではないと思い込んでしまう可能性が大ありだ。知りもしないことを知っていると言った瞬間に、知っていると思い込んでしまうのだ。

    以前にはもしかしたら、それが嘘をついているという自覚があったかもしれないが、それを続けているうちに、あまりにそのように続けているうちに、自分が嘘をついているという自覚が消えてしまう。

    「嘘をつく」という言葉自体には、何やら大事のように聞こえるが、ここで言いたいのはその手の大嘘だけではない。例えば、自撮り写真の編集加工もある種の嘘で、アプリがあまりに美しく仕立て上げてくれるので加工後の自分を本当の自分だと思い込み始めてしまっていたら危険信号だと思ったほうがいい。

     

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    いわゆる「スピリチャル」な世界でも、それは顕著だ。そして、誰しもが嵌りやすい罠だと思う。スピリチャルフードは世界中で過剰供給されているから、いつでも、どこからでも少々取ってきては「私は知っています。」と言える。ショッピングカートに入れて支払う必要などほとんどない。誰だって買うことのできる最高のドレスで着飾って、自分は素晴らしい。ということを証明できる。

    こんな素晴らしい方法を手放すのは惜しいと思うのがマインドだし、「おいおい、ようやっと自分は素晴らしいと証明して何者かであることを見せることができたんだから、このままでいいさ。心配する必要なんかない。」「お前が嘘だらけのツギハギライフを送っていることなんか誰にもわかりゃしないんだ。」と囁き続ける。

     

    私自身、嘘以外に他に何もない−−−みたいな人生を送ってた日々がある。そこらじゅうがすべて嘘だらけで、もう自分でもどうにもならないほど嫌気がさし、ウンザリしていた。しかし、だからと言ってどうしていいのやらまったくわからず、檻の中で暴れ狂っていた猛獣のような日々を過ごしていた。OSHOに出会ったのはちょうどそんな時で、そこから人生を生きるということの何たるかを取り戻し始める一歩を進み始めた。

    OSHOはテイクサニアスをするとき自分が狂ってしまうかどうかの瀬戸際だって言うけれど、私はまさしく狂う一歩手前だったから彼の言葉が染み入る。

     

    嘘をつくアートを楽しんでいるのなら、それはそれでまったくOKだと私は思っている。そういう生き方も本人の完全なる自由だから。私もそうやって生きていた。他の生き方を知らなかったから−−−。

    でもひとたび、それが痛みとなって現れてきたらチャンス。ゲームを継続するか、ゲームを終了するかの選択肢は自分次第だ。

    ここからは選択するという自由がある。

     

    OSHOは言う。

    嘘をつくことで自分が何をしているかに気づくことができたら、YAHOO! 嘘をつくことで得ているものは何か。ありふれたこと、日常の些細なこと。エゴを磨き栄養を与えて、着飾る。そして、嘘をつくことで失くしているものは何か。自分自身のまさに本質。たましい。ほとんど自殺行為と同じだ。

     

    しかし、グッドニュースはある。

     

    嘘をつくアートは、自分で発明し改良し作り上げたものだから「もうやめる!」と決めたらやめることが可能だ。ひとたびゲームに気づいてしまったら、ゲームを楽しむのをやめるより他ない。自分の本質を失い続けていくゲームの存在を知ってしまったら、それを続けていきたいと思う人がいるだろうか。魂に反することを継続したいと願う人間はいないのではないかしら。

    ここに、嘘をつくアートを捨て去るための3つのアドバイスがある。

     

    インド生まれのチベット仏教マスター・アティーシャによる3つの気づき

     

    1. 嘘を誰かについた。と、その瞬間に気づいたらその場で相手に謝まる。嘘をついているまさにその真っ只中でも気づいた瞬間にとめて、古い習慣だから許してほしいと伝える。最初の数日は厳しいが、続ける。
    2. 嘘をつく準備をし始めたその瞬間、口先から嘘が溢れそうのなったその瞬間に気づくこと。嘘をつくことを避け、ストップする。
    3. 嘘がハートの感覚に立ち昇り始めたら、醒めて、気づいていること。(嘘をつくというそのフィーリングがハートに感じ始めたときに醒めて、気づいているということ。)

     

    この3つの気づきの実践をしていくなかで、嘘をつくことが消え真実が現れてくる。

     

    この実践練習はタフだ。やっかいだし、面倒だ。なぜなら、四六時中気づいて醒めている練習だから。流されずに、毎瞬気づいていることができるかどうか。

    習慣はなかなか死なない。習慣はしぶとい。習慣は自分が支配者として君臨してきた地位をそうそう簡単には捨てたりしない。何も考えないで続行してきた思考・行動パターンを意識的にやめようとするのだから相当なもんだ。しかし、やってみる価値はある。

    OSHOは、真実のみが探求するに値すると言う。真実のみが自分を解放し、自由になる道だから。

    そして、どうやって気づいていけるようになるのか−−−−「瞑想」にその鍵がある。

     

    瞑想は誰にでもできる。どこででもできる。いつでもできる。技法が正しく行われれば−−−。そうでなければ時間の無駄になってしまう。正しい瞑想法を試してみよう・実践してみようと思うなら、一度インドに来てみても後悔はしないはず。

     


     

     

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