今どきのインド若者たち恋愛事情
ナマステ。トーシャン(@atmotoshan)です。
最新ボリウッド 映画「Dhadak–ダダク」を観てきました。
物語は、階級が違う若い学生2人の悲恋ストーリー。
一言ですませちゃうと、まぁ、その通りなんだけど、かなりグッときてしまいました。そして、衝撃のラストシーン!
そもそもインドには恋愛というものが存在しない。
そんなわけねーだろ!と、お嘆きになるかもしれないが、実際のところ、マジでそうなのだ。
映画に映し出されたインドの階級制度、家長制度、社会の目、世間の目。
自由恋愛という言葉は、日本では誰も使わない古い言葉になってしまったし、そもそも恋愛に「自由」という接頭詞をつけることすら「ぷぷぷっ」て薄笑いされるか、ひと昔前のおっさん&おばさん扱いされてしまうのがオチだろう。
しかし、この国ではボーイフレンド&ガールフレンドなんて概念が育ってない。それはここ5年位のあいだにビデオクリップやテレビの影響で輸入されている「洋物」であって、彼らの人格形成期には刷り込みされない。
両家が決めた結婚、つまりお見合い結婚が通例であって、自由恋愛どころか恋愛結婚ということは異例のことなのだ。ということを再認識させられた。
両家、つまりお父さんとお母さんが合意し、歓迎し、祝福しない結婚(と、ここではあえて言う。なんでかっていうと恋愛が存在しないから)は、社会から爪弾きにされ、両家の地元社会では生きていくことができない。
インドでは家族のつながりが強いので、「駆け落ち」=「縁切り」状態になってしまうことが必須。それを超えていくことができるのは、
- 「盲目的な愛」
- 「後先考えない突っ走りの恋愛ファンタシー」
- 「ホルモンの力」
これが全世界の若者に共通する普遍的な恋愛基本形である。
ムンバイとかデリーとかの一部の大都市では少し様子が違うだろうけど、人口6億人のインドで、大都市の一部ということは相当数が少ないってことなのですなぁ。
完全な自由意思を持つ個人として生きること
Dhadakという映画の題名の意味は、震え・心臓の鼓動・恐怖。
私が勝手に邦題をつけるなら「震える恋」とでもつけようか。最後のシーン、マジ震えたもの。
インドという国に生まれた故に、「個」であるということが受け入れらない。
私がインドに来た当初、かなり衝撃を受けた考え方だった。
えー?結婚する相手を自分で決められないの?
えー?結婚するまで相手の顔もろくに見れないの?
えー?結婚するまで相手と話しもできないの?
えー?結婚するまでデートもできないの?
自分の趣味とか好みとか、水が合うとか合わないとか、体の相性とか。。。そういうのって完全無視なわけ?この国は?
と、驚きの連続でしたね。ほんと。
この映画が作品として世に出ているということは、こうしたケースがインド全国に広がっているのは間違いないでしょう。
実際(これはストーリー暴露になっちゃうけど)、こうした自由恋愛・恋愛結婚によって本人(たち)が死に至ることになったケースは、統計資料によると過去15年間に3万件に上るらしい。
尋常じゃないと思えるが、おそらく統計数字にでてこない村とかでのケースも入れたらもっと多いんじゃないかと思う。
最近は恋愛結婚(こちらではラブ・マリッジという)を渋々認めざるえない両親もいるようです。ただ、それも最低条件ーカーストが同じ、宗教が同じーが揃っていての前提でのことだとは思います。
ヒンズー教の家族に生まれた娘が、ヒスラム教の息子に恋してしまった。なんて場合、この二人が結ばれ、いわゆる幸せな結婚生活を送ることができる確率は皆無であろう。
自分という個人の意志や欲求は、家族や社会の枠組みには打ち勝てないという事実が渾然と生き続けている。恋人ができない、現れない! と嘆くジャパニーズたちと、誰かを好きになっても両親が祝福してくれない限り結ばれず、好きでもない人と結婚しなければ社会で生きていけないインド女子&男子。
どちらがいいか、というよりも、こうした状況があることを知ることで自分の内側に何かしら発動することが大事なんだと思ってます。
恥とプライド、日本社会とインド社会
日本も家族の恥を表に出さない風潮だけど、宗教的なしばりという意味では結構ゆるい。というか仏教徒の家族とキリスト教の家族の子供たちが結婚するとなっても、よほどのことがない限り今どき両親が反対したり勘当したりはないかもしれない。
インドはというと、まず宗教的背景がある。ヒンズー教、イスラム教、ジャイナ教、キリスト教、仏教。。。。と数はあるが、2大宗教はヒンズー教とイスラム教だ。ここでは宗教の領域にはふれないが、インドでは家族・親戚内での陰湿な暴力性があるし、暴力が絶えない。
日本は、駆け落ちしても最初は誰も応援してくれないし、好意をもって歓迎してくれもしないもんだったりしても、子供ができれば両親も柔和になったり、許されちゃったりする。家族から生涯縁切り絶縁を迫られることはあったにしても、殺されたりはしない。
それだけにインド社会では、世間へのプライドを滅多斬りにする家族メンバーに対する報復は、日本人の想像を絶する。
親のプライド、社会での地位や名誉を傷つけた子供が、両親や兄弟から(直接的・間接的に)殺されるのはそんなに珍しいことではない。「あぁ、あるある。」的に受け止められているというのが本当にショックだ。
この映画のストーリーでは、娘の父は選挙時期を迎えた政治家。一人娘の駆け落ち行為は、彼の政治家生命を経つも同様。政治家として、父親としての社会的メンツを木っ端微塵にした娘に対する仕打ちが本当に震えるほど怖い。
一方、息子の家族はウダイプールという観光地でレストランをやっているのだが、駆け落ち事件後、お店は営業禁止。政治家と警察がぐるになっているので警察に訴えたところで、泣き寝入りするしかない。息子が苦しさのあまり両親に電話しても、彼らは世間の目と自分たちの生存のため、二度と電話をかけてくるな、と言う。痛すぎる。
「若気のいたり」ーーーと言えるのは、ホルモンだけで突っ走った当時の若者が、感情的な痛みや困難をくぐり抜けて成長した大人になったからであって、死んじまったらそんなことも言えない。
インドが生んだ20世紀最大の神秘家OSHOが与えた影響を考えてみる
OSHOが、どれほどの衝撃をこの国に与えたのか。
この映画を観た後、しみじみと思うのであった。しかも、この数千年、各国から植民地されても消滅しきれず継続してきたインドの社会制度から飛び出し、一人の個として生きる宣言をしたインド出身のOSHOサニアシンたち。
彼らは、かつてオレンジ色のローブを着て、マラ(OSHOの顔写真が入ったペンダント)をつけて生きていた。どこに行くにも何をするにも、いつも同じ色合いの服装とマラ。
彼らにとってテイク・サニアスとすることの意味や意義は、日本人のそれと比較に及ばないのかもしれない。
スピリチャル・ネームあったほうがカッコイイみたいな感覚なのか、理由はよく分からないが、最近おみやげ的にテイク・サニアスする人たちもいる。あるいは瞬間風速的に、「よし、サニアシンになるぞ。」ってテイクする人とか。
それはそれで完璧にオーケーだし、そんなのやめたほうがいいとか全く思ってない。そんなのは本人の自由だし、責任も本人以外にないわけだからね。
ただ、そこからの道はどうなっていくんだろうと思うと、自分に真摯でありたいなぁとつくづく感じる。
恋に落ちるって言うけど、ほんとにね、この映画は「恋に落ちた若い2人」の勢いと情熱を感じるとともに、現実を目の当たりにしたときに何を支えとして生きていくことができるのか。
そんな問いが次々と、私の中に投げ込まれた映画でありました。
愛の道は、火の道だ。
と、 いうOSHOの声が聞こえて来る。
関係性は火だ。それは燃える。それは難しい。誰かと一緒に生きることは、ほとんど不可能だ。絶えることのない葛藤・・・多くの者達が逃げた。が、彼らは臆病者だ。大人ではない。彼らがやろうとしていることは、子供じみている。その通りだ。彼らはもっと都合のいい人生を送るだろう。それは本当だ。他者がいなければ、もちろん全て楽にいく。あなたは独りで生きる。誰に腹を立てるのかね?誰に嫉妬するのかね?誰と喧嘩するのかね?だがあなたの生は、全ての風味を失う。あなたは味気なくなる。塩気がまるで効かなくなる。生はあんまりだ。立ち向かうだけの力は自分にはないというだけで、多くの者達が生から逃げた。私はそれは勧めない。私は逃避者ではない。私はあなたに「生で自分の道を闘って進みなさい」と言う。それこそ、唯一の道だからだ。さらに気づいて、油断しないようになる道、誰にも壊せないほどのバランスを保つ道、相手の存在で気が散ることなど決してないほど、静謐になる道だ。相手が侮辱することはあっても、あなたは苛立ったりしない。普通だったら気が狂うような状況を、相手が作り出すことはあっても、あなたは狂わない。その状況を、より高い意識への踏み石として使うのだ。生は、もっと意識的になり、もっと結晶化し、もっと中心に定まって、根づく為の状況として使われなければならない。もし逃げたら、それは種が土から逃げ、土がなく石しかない洞窟に隠れるようなものだ。その種は安全だろう。土の中だと、種は死ななければならない、消えなければならない。種が消える時、木が芽生える。危険な状態が始まる。だから、ヒマラヤの洞窟に行くことは出来る。あなたは種になる。あなたは芽が出ない。この風は、あなたに対抗しているのではない。彼らは機会を与えている。挑戦を与えている。深く根づく為の機会を与えている。風はあなたに「自分の大地に立って、素晴らしい闘いをしたらどうだ」と言っているのだ。それが、あなたを強くする。挑戦は、成長の為の機会だ。そして生には、愛ほど大いなる挑戦はない。誰かを愛していれば、あなたは途轍もない動揺の最中にある。詩人達が言うように、愛は全てバラではない。詩人達はみな愚か者だ。愛を夢見たのかもしれないが、愛を知ったことなど一度もない。愛は全てバラではない。想像し得る以上に棘がある。バラの花は稀だ・・・ここ、そこに棘は無数にある。だが、無数の棘からバラの花が立ち現れると、それには独自の美しさがある。愛は、生における最大の危険だ。だからこそ私は、本当に成長したければ、その最大の危険を受け入れ、その中に入って行くがいい、と主張する。それを避ける多くの道を、人々は見つけようとして来た。ある者達は世間を捨てた。なぜ世間がそんなに怖いのかね?世間が怖いのは、本当は愛が怖いのだ。他者がそこにいたら、誰かと恋に落ちることもあり得るからだ。周りには、素晴らしい魂がたくさんいる。非常に多くの魅力が・・・どこかで捕まってしまうかもしれない。危険だ・・・逃げるがいい!何人かは僧院へと逃げた。何人かは逆の道に逃げた。何人かは、結婚に逃げた。それもまた逃避だ。僧院は逃避、そして結婚も逃避だ・・・愛を避ける為のもの。恋愛は、どういう結果になるのか、誰にも決して分からない。それは、常に破滅に瀕している。決して都合のいいものではない。決して居心地はよくない。恋愛は、喜びの時をもたらす。だが、地獄をももたらす。痛みを伴う成長だ。が、成長は全て痛みを伴う。痛みがなければ、人は決して成長しない。痛みは一部、欠かせない一部だ。その痛みを避けたら、成長をも避けることになる。多くの者達が、どこかで落ち着いてしまった。何人かは野心に落ち着いて、政治家になっている。彼らは愛など気にしない。彼らは「自分達には世間でやるべき偉大なことがある」と言う。彼らは、権力を気にしている。権力を逃避として使う。何人かは、僧院に埋もれている。何人かは、家庭に埋もれている・・・結婚、子供、あれやこれやに。だが愛の挑戦、あり得る限り最大の嵐に直面している人に、私は滅多に出会わない。だが、直面した人は成長する。いつの日か綺麗になって、純粋になって、成熟して、そこから出て来る。関わりを持ちながら人々と動いている時は、常に危険にさらされている。生は鋭くなる。そうなったら、あなたにはひとつの音色がある。そうなったら、あなたのエネルギーは錆ついていない。流れている。洞窟や僧院に、長く住み過ぎた人々を見てごらん。その顔に、ある種の錆が染みついているのが分かるだろう。活気に溢れては見えない。愚かなまでに鈍い。僧達が世間で、素晴らしいものを何ひとつ創造しなかったのは、その為だ。では、私は何を言っているのだろう?「決して独りになってはいけない」と言っているのかね?いや、全く違う。私は「決して孤独であってはいけない」と言っている。「独り在ること」は、関係性を通して学んだ豊かさから生じる。多くの次元、多くの資質を有する、多くの関係性から生じる。母親と共にあること、父親と共にあること、ひとりの友人と共にあること、兄弟、姉妹と共にあること、妻と共にあること、最愛の人、恋人と共にあること、敵と共にあること。「共にあること」が世間だ。そして人は、可能な限り多くの関係性を持たなければならない。そうすれば、あなたは拡大する。それぞれの関係性が、あなたの内なる豊かさに何かを寄与する。人々の中に広がれば広がるほど、あなたは拡大する。あなたはより大きな魂を、そしてより豊かな魂を持つ。さもなければ、貧しくなる。関係を持てば持つほど、あなたは「在る」ようになる。存在は、関係を持つことで発見される。それぞれの関係性が、ひとつの鏡だ。自分のひとつの断片を見せてくれる。自分自身に関する何かを映し出す。成長し切って、無限へと拡大したら、そうなったら、最後の関係性は神とのものだ。神と関係を持ち、神と溶け合った後で、「独り在ること」が生じる。「独り在ること」は、最後の成就だ・・・それを人は学ばなければならない。「独り在ること」は、あなたのあらゆる関係性の開花だ。あなたは、あらゆる関係性から香りを集めて来た。善きにつけ悪しきにつけ、美しいにつけ醜いにつけ、香りを集め続ける。そうして、あなたの中で炎が立ち昇る。この「独り在ること」が、ゴールでなければならない。体験からのみ、人は自由になる。真理は解き放つ。体験は真理を与える。決して体験のない生を求め、決めてはいけない。どんなに辛く困難でも、より多くの体験を求め、決めるがいい・・・とにかく、体験の生を常に選ぶがいい。いつの日か、あなたは超越する。だが、それを知って、初めて人は超越する。OSHO魂の科学―パタンジャリのヨーガ・スートラ,(Vol.10 #2) より抜粋
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