• サニアス〜スピリチュアルな探究者であるとはどういうことですか?

    namaste-Osho

    「未知への扉」 第3章: 輪廻からの脱出(1971年)

    質問:精神霊的(スピリチュアル)な探究者であるとはどういうことですか?

    まず第一に、それは二つのことを意味する。ひとつは、外面的に知られている生は満足を与えるものではない、外面的に知られている生は無意味だということだ。この生全体が無意味なものにすぎないという事実に気づく瞬間、探求が始まる。これは消極的な側面だ。だが、この消極的な側面がそこにない限り、積極的な側面は後に続かない。精神霊的な探究とは、まず第一に否定的な感覚、今ある生は無意味だという感覚をいう。

    この生のプロセス全体が死で終わりをつげる。塵また塵・・手のなかには結局何も残らない。あなたは、苦しみ悶え、地獄の思いで生を通り抜けるが、結局何も成し遂げられずに終わる。これは精神霊的探究の消極的な側面だ。生全体が、あなたがこれに向かうのを助けてくれる。この側面・・この否定性、この欲求不満、この苦悶・・は、世間が行うことになる。

    ひとたび今ある生は無意味だという事実に本当に気づいたら、通常、あなたは探究を始める。無意味な生にはくつろげないからだ。無意味な生とともに、生のあらゆる事物とあなたとのあいだに深淵がつくりだされる。橋を架けることのできない溝が生じ、大きく口を広げてゆく。あなたは錨(いかり)を失ったような感じがする。そのときこそ、意味があるもの、至福に満ちたものの探究が始まる。それが第二の側面、積極的な側面だ。、

    精神霊的な探究とは、夢の投影ではなく、確固とした現実に関わることをいう。私たちの生は、何から何まで投影、夢の投影にすぎない。それは、あるがままのものを知ることではなく、欲望の対象をかち取ることだ。「欲望」という言葉を、いわゆる「生」のシンボルと見なしてもいい。生とは欲望の投影だ。あなたは、あるがままのものを捜しているのではない。あなたは欲望の対象を捜している。

    あなたは求めつづけるが、生は欲求不満を与えつづける。なぜなら、生はありのままにあるからだ。生はあなたの望み通りにはなりえない。あなたは幻滅する。現実があなたに敵対しているわけではない。あなたが現実と和合せず、夢にのみ波長を合わせているということだ。あなたの夢は打ち砕かれて醒める。夢を見ているさなかには何も言うことがない。だが、どんな夢でもかなえられると、何もかもが虚しくなってしまう。

    精神霊的な探究とは、この否定的な側面、欲望が欲求不満の根本原因であることを知ることだ。欲望を持てば、自ずと地獄をつくりだす。欲しがることが世間だ。世俗的であるというのは、欲しがること、あくことなく欲しがり、欲望というものはすべて欲求不満をもたらすだけだということに決して気づかないということだ。このことにひとたび気づいてしまえば、あなたは欲しがらなくなる。あるいは、あるがままのものを知りたいという欲望だけが残る。

    私は、自分を投影せずに、あるがままのものを知ることにしよう。自分はこうあるべきだとか、現実はそうあるべきだということではなく、現実がどうであろうと、ただそのありのままの赤裸々な姿を知りたいだけだ。私は投影しない。私は割り込まない。私はありのままの生に遭遇したい。積極的な意味合いでは、精神霊的な探究とは、何の欲望も持たずに、あるがままの存在に遭遇することをいう。欲望がなければ、投影のメカニズムは即座に働かなくなる。そうなったら、あなたはあるがままのものを見ることができる。ひとたび知られたら、この「あるがまま」・・ありのままのそれが、あなたに一切のものを与える。

    欲望は約束するばかりで、決して与えることがない。欲望は、常に至福、エクスタシーを約束するが、ついにそれらは一度も来ずに終わる。しかも、ひとつひとつの欲望は、さらに多くの欲望に変わるだけだ。それぞれの欲望の代わりに、さらに多くのもっと大きな欲望が生み出され、当然その結果としてさらに大きな欲求不満が引き起こされる。

    無欲なマインドとは、精神霊的な探究に没頭しているマインドだ。精神霊的な探究者とは、欲望の無意味さに完璧に気づいていて、あるがままのものを知る用意ができている者をいう。あるがままのものを知る用意がひとたび整えば、現実は常にすぐそばに、ほんのすぐそこにある。ところが、あなたは決してそこにいない。あなたは欲望のなか、未来のなかにいる。現実は常に現在・・今ここ・・にある。だが、あなたは決して現在にいない。あなたは常に未来に、欲望のなか、夢のなかにいる。私たちは、夢のなか、欲望のなか眠っている。そして、現実は今ここにある。

    ひとたびこの眠りが破られたら、夢が壊され、現在、今ここにある現実に目覚めたら、あなたは生まれ変わる。あなたはエクスタシー、充足感、いつも望みながら一度も達成したことのない一切のものを得る。精神霊的な探究とは、今ここにいることだ。欲望するマインドがないとき初めて、あなたは今ここにいることができる。さもなければ、欲望するマインドは、振り子のように揺れる。マインドは、過去の記憶、あるいは未来の欲望や夢へと向かい、決して今ここにはいない。

    マインドは、いつも「今ここ」というポイントを取り逃がす。それはひとつの極から別の極・・過去または未来・・へと移ってゆき、私たちは、ゆらめく過去と未来のはざまにある現実を取り逃がす。現実は今ここにある。それは決して過去でもなければ未来でもない。それは常に現在だ。「今」こそが唯一の瞬間であり、「今」こそが唯一の時間だ。それは決して過ぎ去ることがない。「今」が永遠だ。それは常に「ここ」にある。

    だが、私たちはここにいない。精神霊的な探究者であるというのは「ここ」にいるということだ。それを瞑想と呼んでもいい、ヨーガと呼んでもいい、祈りと呼んでもいい。マインドとは、過去や未来があって初めて存在するものであり、それらがなければ、存在しない。

    私は昨日ある人に「人は現在のなかでは考えることができない」と話していた。考えると、たちまちそれは過去になっている。だから、マインドは現在のなかに存在できない。それは過去の記憶や未来の投影のなかにしか存在しない。それは決して現在に触れることがない。マインドは触れることができない。そんなことは不可能だ。だから、思考がなければ、マインドは存在しない。

    このノーマインド(無心)の境地が瞑想だ。そのときあなたは今ここにいる。するとあなたは実在のなかへと爆発し、実在があなたのなかで爆発する。精神霊的な探究とは、モクシャ(解脱)、死後の救済を求めることではない。それもまた欲望であり、富、名声、権力を求める欲望よりもさらに貪欲だ。モクシャを求める欲望の方がよりいっそう貪欲だ。なぜなら、それは死さえも超えるからだ。

    精神霊的な探究とは、神を捜し求めることではない。それもまた貪欲だからだ。神を捜しているとすれば、あなたのマインドはまたもや貪欲になっている。あなたは何かを得るために神を捜しているにちがいない。いかに無意識の深みにあって気づかなくても、あなたは何かを得るために神を捜しているにちがいない。とはいえ、私は精神霊的な探究が成就すれば神は存在しなくなると言っているわけではない。モクシャはそこにある。あなたは解放されている。だが、それは欲望ではない。それは実在をあるがままに知った結果だ。

    神はそこにいるが、あなたの欲望ゆえに存在しているのではない。神は実在だ。それゆえに、実在を知れば、それが神的なものであることがわかる。実在は神々しい。精神霊的な探究とは、神や解脱や至福を捜し求めることではない。なぜなら、欲望がある限り、あなたは再び未来を思い描かずにはいられないからだ。精神霊的な探究とは未来への幻想を落とし、現在に留まること、現在にあること、何であれ来るものに今ここで直面できる用意を整えることだ。神性が炸裂し、自由が訪れる。だが、こういったものはもくろむものではない。それらは実在を自覚することによって影のようについてくる。

    まず生とその欲求不満のプロセスに余さず気づきなさい。一片の幻想もそこにあってはならない。さもなければ、あなたはそれにとらわれてしまう。生の体験のひとつひとつに深く入ってゆきなさい。生から逃げ出してはならない。生を深く知れば、それが幻滅を与えるものであることがわかる。逃げだしてはならない。放棄してはならない。そうして初めて、この否定的な部分は完結され、今ここにジャンプすることができる。

    未来こそ人間のマインドが生み出したあらゆるたわごとの根本原因であることに気づいたら、あなたは基本的な一歩を踏み出したことになる。あなたは旅をしてきた。今のあなたには、「あるがままのもの」に気づく用意ができている。最初の部分、否定的な部分においては、生が大いに助けになる。だから、あらゆる体験、あらゆる欲望のなかに深く入っていって、それを知り尽くしなさい。早まった放棄は決してしてはならない。

    これは起こる。本当に生に挫折したわけでもないのに、あなたは宗教があてがう約束を貪るように求める。生の神聖さを味わってもいないのに、あなたは宗教のいう天国に魅せられる。そうなったら、何もかもがむずかしくなる。最初の部分を通り抜けていないのだから、第二の部分はきわめてむずかしくなる。

    まず最初の部分を通り抜けなさい。そうすれば、第二の部分はとてもやさしくなる。最初の旅が完結していない場合にのみ、第二の部分がむずかしくなる。そうなると、あなたは瞑想の祖型を尋ねたり、マインドが動きつづけていると言ったり、思考のプロセスが止まらないと言ったりする。思考は止められない・・どうして止めることができるだろう。そこに欲望がある限り、欲望が思考を生み出しつづけてゆく。最初の部分が充たされていない。

    osho eating

     

    成熟した精神霊的な探究者とは、何も恐れることなく生を体験し、生を隅々まで知り尽くしている者だ。彼は、知らないものが何もないほど、多くのことを知っている。そうなったら、瞑想はやさしい。思考を生み出す者もなく、欲望を生み出す者もいないからだ。ただ「フー!」と叫ぶだけで、あなたは現在にいる。どんなに単純な方策でもあなたを止められる。禅マスターの棒が持ち上げられると、あなたは現在にいる。最初の部分が成就されていたら、このような単純な方策でさえ助けになる。

    ある日のこと、禅僧の臨済が寺院で話している。彼は説法を始めた。ところが、ある男が邪魔をする。臨済は話を止め、尋ねる。「どうしたのだ?」その男は立ち上がって言う。「魂とは何ですか?」臨済は、棒を手にとると、聴衆に道を開けるように言う。その男は震えはじめる。こんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。臨済は男のところへ来ると、彼の首を両手でつかんで締めつける。男は白目をむく。臨済は締めた手をゆるめずに、こう尋ねる。「おまえは誰だ?目を閉じろ」男は目を閉じる。臨済はさらに尋ねる。「おまえは誰だ?」男は目を開けると、笑って、臨済におじぎをする。彼は言う。「あなたは『魂とは何か?』という問いに本当に答えてくださいました」こんなに単純な方策が!だが、この男には用意ができていた。

    ある人が臨済に尋ねる。「このような質問をする相手には、誰に対しても同じことをなさるのですか?」臨済は言う。「彼には用意ができていた。彼はたんに質問のために問うたのではない。彼には用意ができていた!最初の部分は成就されていた。彼は本当に尋ねていた。これは彼にとっては生死の問題だった。彼は『魂とは何ですか?』と尋ねた。最初の部分は完全に成就されていた。彼は生に幻滅しきっていた。彼が『魂とは何ですか?』と尋ねていたのは、彼にとってはこの生が死であることが明らかになったからだ。今、彼は生とは何かと尋ねている。私がどう答えても意味をなさなかっただろう。私は彼が現在に立ちつくすことを助けただけだ」

    もちろん、誰かに首を絞められて、危うく殺されそうになれば、あなたは未来のなかにはいられない。あなたは過去のなかにはいられない。あなたは今ここに移る。その瞬間を取り逃がしたら、危険だ。このような人に向かって「内側に深く入ってゆき、自分が誰であるか知りなさい」と言うなら、それだけで相手は変容を遂げる。彼はサマーディに入ってゆく。彼はその瞬間に立ちつくす。ほんの一瞬でも現在にいることができたら、あなたは実在を知ったことになる。実在と遭遇したことになる。そして、あなたは二度とその足跡を見失うことがない。

    精神霊的な感覚とは、あるがままのもの・・このすべてのあるがままの姿を知ることだ。これ!今起きているこれ・・私が話し、あなたが聞いている、このことの全体は?これは何なのか?立ち止まり、そのなかに深く沈潜してゆきなさい。それをあなたに対して開かせなさい。あなたをそれに対して開かせなさい。すると、出会いが起こる。その出会いが探究だ。

    その出会いが探索のすべてだ。それゆえに、私たちはそれをヨーガと呼んできた。「ヨーガ」とは「出会い」を意味する。「ヨーガ」という言葉自体が「出会い」、再結合、再びひとつになることを意味している。いわゆる精神霊的な探究者は、霊性など少しも探究していない。彼らは自らの欲望を新しい次元に投影しているだけだ。だが、霊的な次元においては、微塵の欲望も投影することは許されない。なぜなら、霊的な次元は渇望していない者たちに対してのみ開かれているからだ。それゆえに、欲望を抱いている者たちは、新しい幻想、新しい夢を際限なく生み出しつづけてゆく。

    まず欲望にはきりがなく、どこにも行きつかないことを自覚すること・・そして次には、静かに立ち止まり、あるがままのものを知ること・・あらゆるものが開いている。欲望が私たちを閉じ込めているだけだ。全存在が開いている。すべての扉が開いている。だが、私たちはあまりにも素早く走っているために、それを見ることができない。そして、欲求不満がつのればつのるほど、私たちはスピードを上げてゆく。というのも、マインドが「まだスピードが足りない、辿り着かないのはそのためだ」と言うからだ。

    マインドは「辿り着かないのはおまえが走っているからだ」とは言わない。マインドに言えるはずがない。それは非論理的だ。マインドは言う。「おまえがもっと早く走らないから辿り着かないのだ。だから、もっと早く走れ!もっと早く走っている者たちは、辿り着こうとしている」と。ところが、もっと早く走っている者たちに尋ねたら、彼らのマインドも同じことを言っている。「もっと早く走るんだ。全速力で走っている者たちは、辿り着こうとしている」

    誰も辿り着こうとしてなどいない。だが、あなたの前にも、そして後ろにもかならず誰かがいる。あなたは誰かの先を進んでいるが、どこにいようと、かならずあなたの前にも誰かがいる。なぜだろう?それは欲望が輪を描いて走るからだ。私たちは輪になって走っている。だから、あまり早く走ると、後ろにいた人までもがあなたの先にくることがある。私たちは輪になって走っているので、かならず前には誰かがいる。そうなると、まだスピードが足らない・・あいつが辿り着こうとしているのに、俺は負けつつあるという感覚が起こる。

    インドでは、多くの真理が知られている。私たちはこの世界をサンサーラと呼んだ。サンサーラとは「車輪」を意味する。あなたが走っているだけでなく、車輪そのものも回っている。それは静止した輪ではない。あなたが立ちつくしていても、車輪は回りつづける。だから、走ることを止めるだけではだめだ。人はこの輪から抜け出さなければならない。

    この抜け出すことがサニヤスだ。止まるだけでは充分ではない。あなたは輪から完全に抜け出さなければならない。あなたが走っていなくても、輪は回りつづけるからだ。その輪にはとてつもない力があるので、その場にじっと立っていても、あなたは動いている。サニヤスとは降りること・・走るのを止めるだけでなく、降りることだ。輪から降りなさい。そこから完全に抜け出して、輪を目撃するがいい。そのとき初めて、この輪が何でできていて、なぜ自分が走っていないときですら回りつづけるかがわかるようになる。

    この輪は無限の欲望・・かってあった一切の欲望、今ある一切の欲望、これまで存在してきたすべての人や生きとし生けるすべてのものの欲望によって生み出されている。あなたは死んでゆくが、あなたの欲望は死後も続く波を引き起こしている。あなたはこの世から去ってゆくが、あなたの欲望はヌー圏にさざ波を引き起こしている。あなたはこの世を去るかもしれないが、私が語っているこれらの言葉、これらの音は永遠に振動しつづけてゆく。

    あなたが抱いた欲望が何であれ、それが充たされても充たされなくても変わりはない。欲望があなたのマインド、あなたのハートに入り込む瞬間、あなたはさざ波、波動を引き起こしている。それらはどこまでも続いてゆく。この車輪、このサンサーラは、かってあった一切の欲望、存在している一切の欲望から成っている。この力・・あらゆる死者とあらゆる生者の力・・があまりに強大なので、あなたは静かに立っていられない。その力に押されて、あなたは走らざるをえなくなる。

    それはまるで群衆の中にいるようなものだ。群衆全体が走っていれば、あなたは静かに立ってはいられない。あなたは押されて走る。走れば安全だが、走らなければ殺されてしまう。走るのにあなたのエネルギーはいらない。少しも努力しなくても、群衆が押してくれる。これが車輪、欲望の車輪だ。あなたはチベットの車輪の絵を見たことがあるにちがいない。そこには欲望の車輪の全容がみごとに描かれている。

    この輪から抜け出すことがサニヤスだ。あなたはただ群衆から出てくる。あなたはただ降りる。あなたはただ道端に坐って、さよならを言う。そのとき初めて、その現象、その輪の正体がわかる。そのとき初めて、人々が輪になって走っているのがわかる。彼らが何度も何度もあなたの前を通り過ぎるので、それが輪であることがわかる。

    仏陀やマハヴィーラのような人が、この世界をサンサーラ、車輪と呼ぶことができたのは、彼らがそこから抜け出して、それが輪であることを知ったからだ。あなたは直線の上を走っているのではない。それは円だ。同じ欲望がくり返され、夜、昼となく、同じ欲求不満を与える幻想が旋風となって舞いつづける。後ろから押され、前から引っ張られ、あなたは舞いつづける。

    サニヤスとは脇によけること、輪から抜け出すことだ。これがサニヤスの第二の側面だ。サニヤスには二つの側面がある。最初の部分は欲求不満を知ること、苦悶を知ることだ。そして、これは奇跡だ・・ひとたびこの世が苦悶、欲求不満に他ならないことを知ってしまえば、欲求不満は少しも起こらない。

    欲求不満が起こるのは、世間が欲求不満を引き起こすはずがないと思っているからだ。苦悶がやって来るのは、望みがないとわかっているときでさえ希望を持つからだ。そんな希望は無意味だ。これがわかれば、少しも絶望感を覚えることはない。それを感じる必要はない。そうなったら、絶望感を覚えることなど何もない・・希望がないのだから。

    仏教が理解されなかったのはこのためだ。西洋人のマインドは、それを悲観主義と解釈することしかできなかった。それは起こるべくして起こった錯誤だった。仏教は悲観主義ではない。だが、それが西洋人のマインドに仏教が悲観主義だと映るのは、仏教が「この世は欲求不満を引き起こす、この世はドゥッカ・・苦しみだ」と言うからだ。それは人を悲観的にさせる。だが、それは当たっていない。仏陀ほど幸福で至福に満ちていた人はこの世にいなかった。あるいは、このような人々はごくわずかしかいなかったとも言える。

    仏陀は悲観主義者ではまったくなかった。では、その秘密は何なのか?その秘密はこれだ。つまり、この世がドゥッカ(苦)であることがわかれば、あなたはドゥッカ以外のものは何も期待しなくなる。期待から生まれるのは悲観主義だけだ。期待がなければ、苦しむこともない。生は苦だと知ってしまえば、二度と苦しむことはない。あなたはその外に出ている。

    だからサニヤシンとは欲求不満を覚えていない者だ。サニヤシンとはこの世が欲求不満をもたらすことを知った者だ。彼は欲求不満になっていない。彼はこの上もなくくつろいでいる。彼を欲求不満にさせるものは何もない。彼はすべてがなるようになっていることを知っている。死でさえも彼には苦しみではない。死は確定しているからだ。

    ひとたび旋回するこの輪・・この世間、このいわゆる生、くり返されるこの悪循環の本性を知れば、あなたは静かで至福に満ちた人になる。もう何の希望も持っていないので絶望を感じることはない。あなたはくつろぎ落ち着いている。くつろげばくつろぐほどあなたは落ち着いてゆく。瞬間に留まれば留まるほど、あなたは揺らがず、静かに立っている。

    まさにこの瞬間、今ここに、知り、自覚すべき一切のもの・・モクシャ、神、実在がある。まさにこの瞬間に!だから、ある意味で、精神霊的な探究とは何かを求めることではない。それは何かの目標に向かうことではない。それはあるがままのものを知ることだ。そして、その「知」は、ひとたびあなたが瞬間に留まればやって来る。

    瞬間に留まることが秘密の鍵だ。あるいは、開かれた秘密と言ってもよい。瞬間に留まることが開かれた秘密だ。

     

    (第3章より抜粋)

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