• サニアス 〜輪廻からの脱出

    mala-osho

    「未知への扉」 第3章: 輪廻からの脱出(1971年)

    質問:先回、あなたはマーラについて、衣服の色を変えることについて、名前を変えることについて、さらにこれらの理由について語られました。あなたは、サニヤシンがあなたの写真を首にかけることをどうして望まれるのですか?よりによってグルであることを否定されているあなたが?

    私はグル(師)であることは否定するが、あなたが弟子であることは否定しない。人は決してグルになどなるべきではない。だが、弟子であることは、それなくしては何も起こりえない何かなのだ。グルが存在しないときには、師事すること(discipleship)は、内なるもの・・内なる習練(discipline)になる。実際、このふたつの言葉は、同じ語源(discipulus)からきている。それは探索し、学ぶ用意ができている心、開いていて、繊細な感受性を備えた心を意味する。それゆえに、私はグルであることを否定するが、あなたが弟子であることは否定しない。

    もう一点、写真が入ったマーラには、その背後に多くの理由が隠されている。まず第一に、その写真は私のものではない。もしそれが私のものであったなら、私は写真をそこに入れることをためらっただろう。自分の写真をそこに入れる勇気のある者などひとりもいない。誰でもそうすることを思い浮かべはするだろうが、実際、そこに入れる者はひとりもいない。写真は、一見私のものに見えはするが、そうではない。実際、私の写真を撮ることは不可能だ。自分自身を知る瞬間、人は描写も、記述もできず、枠組みを与えることもできないものを知る。私は描写しえず、写真に撮ることもできない虚空として存在している。私が写真をそこに入れることができたのはそのためだ。

    さらに二,三のことを理解しなければならない。その写真を知れば知るほど、それに集中すればするほど、それと波長を合わせれば合わせるほど、あなたは、私が言っていることを感じるようになる。それに集中すればするほど、写真はそこから消えてゆく。だが、これはあなたがやって初めてわかることだ。

    夕方の瞑想で、あなたは瞼をほんの一瞬も閉じることなく、40分間、私に集中しなければならない。40分間、絶えず集中する者は、私がそこにいないことに何度も気づくようになる。私がいる場所は空っぽで、空無になる。そして、このことを知るまでは、集中することができたとは言えない。

    だから、この写真は瞑想するために与えられたものだ。あなたは、瞑想に入ってゆけばゆくほど、ロケットが空(から)であることを知るようになる。ロケットに集中すると、あなたは私と波長が合ってゆく。そして、写真がなくなる瞬間・・ロケットが空無で、誰も存在せず、無のみがそこにある瞬間・・がきて初めて、あなたは私と意思を通わせることができる。私があなたがたにロケットを授けた理由のひとつはこれだ。

    もうひとつの理由は、あなたがたが様々な形で成長してゆくにつれ・・さらに進歩し、瞑想に向かって進み、瞑想的になればなるほど・・ますますあなたがたは自分に害を及ぼしかねない種々の影響に対して敏感で傷つきやすくなってゆく。ふだんはあまり生き生きとしていないので、あなたはそれほど敏感で傷つきやすくはない。瞑想が深まれば深まるほど、あなたは種々の影響に対してオープンになってゆく。有害なものがたくさんあるかもしれないので、あなたは身を守らなければならない。

    このマーラ・・この写真、このロケットがあなたを守るだろう。これは秘められた科学なので、このことについては示唆を与えることしかできない。写真の入ったロケットは象徴にすぎない。だが、それはあなたが充分に強くなり、防御がいらなくなるほど深く変容するまで、あなたが絶えず私を思い起こす助けになる。その想起が助けに、防御になる。この写真があると、あなたは知らず知らず無意識のうちに、日中何度も私を思い出すだろう。あなたが思い出すのを当てにはできない。写真が必要なのはそのためだ。あなたは忘れるかもしれない。そして、その間隙が害になるかもしれない。

     

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    私はあなたにサニヤスを与えた以上、あなたの証人となった以上、あなたにイニシエーションを授けた以上、私にはあなたに対する多くの形での責任が生じる。ある意味で、あなたは私に明け渡したのだから、私はあなたの面倒を見なければならない。あなたはいつも私のそばにはいられないが、私はいつもあなたのそばについていることができる。このロケットがあると、あなたは気づかないうちに私を思い出す。他人が思い出させてくれるだろうし、あなたに会った者はみな、まず先に写真のことを尋ねるだろう。そして、私を思い出す瞬間、たとえあなたが気づいていなくても、私がそこにいる。だが、こういったことは次第にわかってくる。

    そこには多くの理由がある。だが、それらについて話すわけにはゆかない。これだけで充分だ。他の理由は追々明かされてゆくだろう。今は明かさない方がよい。話してならない事柄がいくつかある。なぜなら、そのことについて話すだけで、それらは皮相なものになってしまうからだ。オカルト、秘密のままにしておくべき事柄がいくつかある。それらは隠された状態でのみ作用するからだ。さもなければ、効果がない。それらは、樹の根とそっくりだ。根は暗い地中に留まり、樹には知られることがない。そうして初めて、根は働くことができる。

    そういうわけで、無意識のまま、地中に留まるべき隠された事柄がいくつかある。あなたはそれを知ってはいけない。そうして初めて、それらは作用することができる。さもなければ、効果はない。根は知られてはならない。それらは隠しておかねばならない。それゆえに、あなたが尋ねても、私が答えない事柄がたくさんある。あるいは、隠されているものごとがあらわにならない程度にまでしか私は答えない。隠されているものは隠しておかねばならない。体験することによってのみ、それはわかってくる。

    3ヵ月もすれば、マーラなしでは一瞬もいられなくなるだろう。あなたは違いを感じるだろう。だが、それはあなたの「知」だ。それがあまりに深遠なので、あなたは気づかずにはいられない。そして、やがてその体験がさらに深く、さらに豊かになるにつれ、写真がそこにあることをまったく感じなくなるだろう。あなたの意識が深まるにつれ、ロケットは空っぽになってゆく。他人は写真を見るが、あなたは見なくなる。これが起こるとき、あなたは何も介在させず、直接、じかに私と意思を通わせることができる。

    私は、何も介在させずに、実に様々な方法を用いてものごとを伝達しようとしている。なぜなら、いかなる媒体を通じても伝えることができない事柄があるからだ。そこで、私は方便を編み出さなければならない。このサニヤスも方便だ。このイニシエーションも方便だ。イニシエーションを受けた者たちは、他人には言えないものごとを知ることができるようになる・・オカルト的訓練を経て、時節が到来し、機が熟さない限り、通常は誰にも理解できないたくさんの秘密や鍵を。

    これはたんなる始まりにすぎない。多くのことが続いて起こる。あなたが受容的だと私が感じたら、そのときには、多くのことが続いて起こる。あなたが受容的ではないと私が感じたら、そのときには、始まりが終わりになる。あなたは始まりからも多くを得るが、ものごとの全体は得られない。だから、様々な方法を使って、私はあなたの受容力を知ろうとする。

    ある人が私のもとにやって来て、サニヤスを取ると、私はその人に写真の入ったマーラを授ける。おそらく相手は「どうしてあなたの写真を身につけなければならないのですか?」と尋ねてくるだろう。おそらくそう問いかけてくるだろう。だが、もしその人が尋ねなかったら、素直にマーラを受け取って、質問をしなかったら・・相手に好奇心がなかったら・・そのそぶりから、彼自身についてのより深い手掛かりを得ることができ、問うことのできない事柄を彼に伝えることができる。

    質問しても、伝えることができない事柄がある。というのも、それらは証明のしようがないからだ。それらは論じようがないからだ。いくつかの問いには答えようがない。それらは「知」の赤裸々な言明だ・・証明もなければ、判断基準もない。

    だから、私のもとに来た人に凡庸なマインドが質問しがちなものを与えても、相手が問いを発しない場合には、それがもっと深い事柄、問うべきではない事柄をその人に授けてもよいという徴になる。あなたは実に様々な形で縛られている。あなたがどれだけマインドの理屈っぽい部分に縛られているかを知らなければならない。私はそれを知らなければならない。なぜなら、理性に縛られれば縛られるほど、より深い事柄を知ることができなくなるからだ。理性は、あなたの存在のもっとも皮相な部分、ただの表面にすぎない。

    それは自分がもっとも深き部分であると言い張るが・・浅薄なものだけが自分がもっとも深いと主張する・・理性はあなたの存在のもっとも皮相な部分だ。それにはしなければならないことがあり、少しは役に立つが、実用性があるだけだ。もしそれを未知なものへ入ってゆく手段と見なしたら、知る価値のあるものを何ひとつ知ることはできない。だから、私はあなたを知るためにも、たくさんの方便を使う。私がすることにはすべてひとつひとつに多くの理由がある。例えば、抵抗する人を例にとってみよう。

    15日前に、ある人が手紙でこう言ってきた。「私はあなたのイニシエーションを受けたいのですが、あなたを私のグルにはできません」私は誰のグルでもない。私自身、一度もグルであると主張したことはない。だが、この人は、どうやら私が自分はグルだと主張していると思っているようだ。私は、この人には「私をグルと見なさなくてもよい」とは言えない。彼に力量がないのはきわめて明白だ。あなたが弟子でないとしたら、私はグルにならなければならない。

    だが、あなたが弟子であれば、私はグルでなくてもよい。その必要はない。もしあなたが明け渡しを拒む自己中心的な態度にこだわるなら、あなたのエゴを壊すために、私は多くのことを強要しなければならない。あなたのエゴを消すために、私は様々な方便を講じなければならなくなる。あなたにエゴがなければ、私は方便を一切使わない。そういうわけで、問題はいっそう複雑になる。私は弟子になる用意ができている者には「私はあなたのグルではない。あなたが弟子であるだけで充分だ」と言う。

    ところが「あなたを信じることはできません。あなたを私のグルと見なすことはできません」と言う者には、グルだと主張する。さもなければ、この人をイニシエートすることはできない。相手は条件つきで来ようとしているが、条件つきではイニシエートすることができない。

     

     

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    イニシエーションとは、あなたに明け渡す用意ができている、信頼する用意ができているということだ。あなたに用意ができていなければ、イニシエーションを受ける必要はない。これは些細なものだ。マーラは些細なものだ。このローブは些細なものだ。これはあくまで入口だ。これから道は暗くなってゆく。あなたが想像もしなかったものごとがあるだろう。あなたは信頼しなければならない。さもなければ、あなたは一歩も踏み出すことができない。だとしたら、信頼する力があなたには欠けていることを、自分をもっと先へ導こうとするいかなる努力も徒労に終わることを、入口で知っておいたほうがよい。

    宗教は、基本的に「信じること」でも「信じないこと」でもない。宗教とは信頼すること、信頼だ。いつであれ未知なるものに飛び込まねばならないときには、他に方法はない。信頼しない限り、あなたはそれを知ることができない。あなたは、今はそれを知らないのだから、そうするより他にない。あなたはただ信頼してジャンプする他にない。マーラは、この信頼を生み出す助けにもなる。

    私が「写真に瞑想すれば、写真が消える」と言ったとしても、調べもせずに信用しないことだ。試してみるがいい。そうすれば、それは起こる。私が「写真が消えると、私と意思を通わせることができる」と言ったとしても、調べもせずに信用したりしないことだ。試してみなさい。それを仮説として実験してみるがいい。写真が消え、私と意思を通わせることができる瞬間、あなたには信頼を必要とするものごとに向かう用意ができている。そうなったら、信頼する心を持って、あなたは先へ進むことができる。

    文明が進めば進むほど、自我(エゴ)はますます結晶化してゆく。自我こそ唯一の障壁だ。今ではそれが最大の障壁だ。いつでもそうだったわけではない。サリプッタが仏陀のもとへやって来た。彼は当時のもっとも博学な人物のひとりだった。彼はたくさんのことを尋ねた。たくさんの質問をした。彼はあれこれ論じた後で、イニシエーションを受けた。イニシエーションを受けた後、彼は30年間、絶えず仏陀のもとにいた。だが、それ以来、彼は一度も質問をしなかった。

    ある人が彼に尋ねた。「サリプッタ、あなたはひじょうに博学な方です。仏陀以上の知識をお持ちだそうですね・・情報知識に関するかぎり、彼はマハパンディット、大学者だ・・ここにやって来られたとき、あなたはひじょうに深遠な事柄について論じられ、多くの質問をなさいました。あなたがあのような形で仏陀に質問してくださったおかげで、知らずに終わったかもしれない多くのことを知ることができて、私たちはとても幸せでした。あなたの質問のおかげで、私たちはそれらを知ることができたのです。どうして今は沈黙されてしまったのですか?」

    サリプッタは言った。「イニシエーションを受ける用意ができたとき、私は質問を止めなければなりませんでした。何を尋ねても馬鹿げているからです。私は以前、信頼が起こる前に、あらゆることを尋ねました。私の心は今は落ち着いています」ただサリプッタが再び質問をするかどうかを調べるために、仏陀は時々このような不条理なことを言った。彼は誰でも「あなたは何を言っているのですか?」と尋ねざるをえないような不条理なことを言った。だが、サリプッタは沈黙したままだった。

    仏陀はサリプッタに言った。「どこにいても、私がいる方角に敬意を表しなさい。おまえがどこにいようとだ!」サリプッタはどこを彷徨っていようとも、いつも仏陀が住んでいる方角に敬意を表した。仏陀の死後、サリプッタ自身も覚醒を遂げた。ある人が言った。「あなた御自身が覚醒されたのですから、もう誰にも敬意を表さなくてもいいでしょう。あなた御自身がブッダになられたのですから」

    サリプッタは言った。「私は、以前は敬意を表することができなかった。目覚めておらず、自我がそこにあったからだ。目覚めた今となっては、もう敬意を表することはできない。となると、いつ敬意を表せばいいのだろう?私は、以前は敬意を表すことができなかった・・敬意を表すにしても、苦心惨憺したものだった。だが、苦労して払う敬意など敬意ではない。当時の私は、自我ゆえに敬意を表すことができなかった。ところが今度は、『あなたは覚醒されたのですから敬意を表さなくてもいいでしょう』とあなたは言う。では、私はいつ敬意を表せばいいのだろう?」サリプッタは言った。「仏陀は敬意を受ける必要がない。だが、今こそその時だ!これまでそうすることができなかったのだから」

    だが、当時は信頼が起こりやすい時代だった。今や、信頼の起こる可能性はまったくなくなっている。宗教が実現不可能になってしまったのはそのためだ。宗教は、不合理かつ矛盾したものであらざるをえない。未知なるものへとジャンプすることは不合理であって当然だ。それは合理から不合理へのジャンプだ。それゆえに、私は、徐々にあなたの用意を整え、あなたを準備してゆく。私は、あなたを不合理なものへと参入させるために少しづつ準備してゆく。

    私があなたの質問に答えても、それはあなたの理性を説得するためではなく、たんにそれを粉砕するためだ。私が合理的に見える時があっても、それは始めだけだ。あなたのマインドに働きかけはじめるためにそうしているだけだ。私が合理的だとあなたが感じるなら、そのとき、あなたの心は調和している。そして、あなたが調和しているのを見て取ると、私はただちにあなたを不合理なもののなかへと押し入れる。不合理なもののなかへ押し入れられる他にすべはない。

    それだけではない。あなたの用意が整えば整うほど、私はあなたを他人の目には狂気と映るものごとのなかへと押し入れる。あなたに狂う準備ができているのを見届けたら、あなたが他人の目や他人の意見を恐れず、自分自身の不合理さに恐れもしなくなれば、そのとき初めて、もっと深い鍵をあなたに手渡すことができる。それまではだめだ。そんなことをすれば、あなたはその鍵を投げ捨ててしまうだろう。あなたはその価値を認めることができないだろう。あなたはそれを、それが鍵であることを理解することすらできないだろう。

    だから、イニシエーションを受けてサニヤシンになった者たちはみな、不合理なものに参入してゆく準備を徐々に整えなければならない。存在とはそういうものだ!それは問いには応じない。生とはそういうものだ。それは何の釈明もせず、ただある。私たちの問いや答えは、すべてごまかしにすぎない。科学的な答えさえもがごまかしだ。なぜなら、それらは決して本当には何にも答えていないからだ。それらは疑問を一歩背後に押しやるだけだ。それらは、問いを先へ進めるだけだ。あなたは疲れ果てて、問うことを止める。

    いかなる問いも答えで答えることはできない。問いはすべて実存的な跳躍によって解かれるのであって、知性によって解かれるのではない。酸素と水素が結合するとどうして水ができるのかと尋ねたら、科学者は「それはただ起こる。そうなっているのだ」と言うだろう。「それは起こる。私たちに言えるのはそれだけだ」と。だが、どうしてそれが起こるのだろう?「なぜ酸素と水素で水ができるのか、なぜヘリウムと酸素では水ができないのか?」と科学者に尋ねる者はいない。答えはない。

    科学者は言うだろう。「私たちは、それがどのようにして起こるかを言うことしかできない。なぜかはわからない」だが、宗教のこととなると、私たちはいつもなぜかと尋ねられてばかりいる。合理的な立場に立つ科学者でさえ、なぜに答えられない。ところが、宗教は、決して合理的な立場に立たないのに、いつもなぜかと尋ねられてばかりいる。

    あなたが「なぜこのマーラをつけるのです?なぜこの写真をつけるのです?」と尋ねると、「このようにしてそれを使いなさい。そうすれば、こういうことが起こる」と私は答える。私の答えは可能な限り科学的だ。宗教は、決して合理的な立場には立たない。宗教は、ただ不合理な立場にのみ立つ。マーラをこのように使いなさい。写真に瞑想するがいい。そうすれば、写真がそこから消える。それはそのようになる!そうなったら、不在の写真が扉となり、その扉を通して、あなたは私と意思を通わせることができる。それはそのようにして起こる。瞑想が終わったら、マーラを外して、感触を味わいなさい。それからマーラをかけ、感触を味わいなさい。そうすれば、違いがわかるだろう。

     

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    マーラがないと、まったく無防備で、害を及ぼしかねない力の手中にあるような感じがするだろう。マーラがあると、守られている感じがする。自信があり、より落ち着いている。外部からあなたをかき乱すものは何もない。起こることはこういったことだ。試してみれば、わかってくる。しかし、なぜそうなるかは科学的に答えることはできない。それに、宗教の観点からすれば、答えなければならない問いなどない。なぜなら、宗教は決して自己主張をしないからだ。宗教の儀式の多くが的はずれになるのはそのためだ。

    時が経つにつれ、深遠な意義を秘めた儀式も無意味になってゆく。ある種の鍵が失われて、なぜその儀式が存在するのか誰にも説明できなくなるからだ。そうなったら、それは死んだ儀式にすぎなくなる。その儀式では何もできない。儀式を行うことはできるが、鍵が失われている。例えば、あなたはマーラをかけつづけることができる。だが、そこに入った写真がある内なるコミュニケーションを意図したものであることを知らなければ、ただの重荷にしかならない。そうなったら、鍵は失われている。マーラをつけていても、鍵は失われている。やがてあなたはマーラを投げ捨てなければならなくなる。それは役に立たないからだ。

    マーラは瞑想のための方便だ。それは鍵だ。40分間、瞬きをせずに私を見つめる夜の瞑想が鍵だ。そして、夜の瞑想に深く入ってゆく者は、ロケットのなかに隠されている秘密の扉を知るだろう。だが、こういったことは体験することによってのみ起こる。私には、あなたがその体験に向かうのを助けることしかできない。だが、それがあなたの身に起こらない限り、あなたにはわからない。それは起こりうる。それはとても簡単だ。少しもむずかしくない。私が生きているあいだは、それはやさしい。だが、私がいなくなれば、それはひじょうにむずかしくなる。

    この世に存在した宗教的彫像は、すべてこのような方便として用いられた。だが、今やそれらは無意味なものになっている。仏陀は、自分の彫像をつくってはならないと宣言した。だが、彫像を用いることで起こりうる内なるワークが、それでも為されなければならない。彫像そのものに意味はない。重要なのは、それを用いて為される内なるワークだ。

    マハヴィーラの信奉者たちは、今日でも彫像を通してマハヴィーラと意思を通わせることができる。では、仏陀の弟子たちはどうだろう?菩提樹がひじょうに重要になったのはそのためだ。それは仏陀の彫像の代わりに用いられた。仏陀の死後500年は、彼の彫像は存在しなかった。仏教寺院には、菩提樹の絵と象徴的な仏足跡のみが置かれていた。だが、それで充分だった!それは今でも残っている。ブッダガヤにある樹は、最初の樹の子孫であり、鍵を知っている者たちは、ブッダガヤの菩提樹を通して今日でも仏陀と意思を通わせることができる。世界中の僧侶たちがブッダガヤにやって来るのは意味のないことではない。けれども、彼らは鍵を知っていなければならない。知らなければ、そこを訪ねても、ものごと全体がただの儀式に終わってしまう。

    これが鍵だ・・特定の波長を引き起こすために、特定の仕方で唱えられ、特定の仕方で発音され、特定の仕方で強調されたある一定の周波数のマントラ。ある波長、ある波動がつくりだされねばならない。そうなったら、菩提樹はただの菩提樹でなくなる。それは通路になる。それは扉を開く。そうなったら、25世紀は消え、時間の隔たりが消滅する

    あなたは仏陀と顔を見合わせることができる。だが、鍵はいつも失われる・・そういうわけで、言えるのはこれだけだ。ロケットを使えば、色々なことがわかってくる。私が言ったことがすべてわかり、それ以上のことがわかってくる。私が言っていないことさえわかってくるだろう。

     

    (第3章より抜粋)

     

    いくつかの他の抜粋については、次回の記事でご紹介していきます。

     

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